Sasayama’s Weblog


2005/10/29 Saturday

自民党の新憲法草案に見る環境権の規定を検証する。

Filed under: 未分類 — 管理人 @ 11:26:22

2005/10/29(Sat)
 

null自民党は28日、新憲法起草委員会(森喜朗委員長)などを開き、結党50年に向け策定を進めていた新憲法草案を決定した

かねてから、私のサイトでは、新憲法における環境権のあり方について、『憲法論議に環境権を明確に位置づけるために』などで論じてきたが、この観点から、今回の新憲法草案を検証してみると次のようになる。

今回の自民党の『新憲法草案』における『環境権』についての記載は、次の二箇所である。

まず、前文において、「日本国民は、自然との共生を信条に、自国のみならず、かけがえのない地域の環境を守るため、力を尽くす。」とあり、

第25条の2において「(国の環境保全の義務)国は、国民が良好な環境の恵沢を享受することが出来るように、その保全に努めなければならない。」

とある。

この前文の意味するところは、『国家の環境保護義務を、国家目標規定として盛り込む環境権の宣言』であり、

第25条の2の意味するところは、「特定の国家活動に対する個人の請求権を認めるもの」である。

問題点機[氷イ粉超の「次世代への公共信託」は、どの条文でカバーするのか? 

ここで、問題となるのは、現行憲法の前文、第11条、第97条に「将来の国民より信託された権利」の規定があるが、これまでは、環境権の援用としては、この条文は、使われなかったが、これをどこでカバーするかである。

敬愛する愛知和男先生の『愛知私案』においては、第34条に「かつ、われわれに続く世代に、権利を引き継ぐ義務を有する」との規定がある。

愛知和男先生は、私案の解説において、環境権について、「良好な環境は一代で失われる危うさを持ったものであるから、環境権に関しては、現在の世代が未来の世代にそれを引き継ぐ義務があることを、とくに明記した。」としている。

グルジアの憲法や、アメリカ・ぺンシルバニア州憲法、イリノイ州憲法などでは、後世代への保護義務について触れている。

今回の自民党の新憲法草案における前文の規定では、『国を超えた、範囲としての環境権の外延性』については触れているが、「現在を越えた、時系列としての環境権の外延性」については、触れられていない。

つまり、「環境権の外延性が、時間的、空間的にどこまで及ぶか」と言うことについては、空間的には、地球公共財としての環境権は、救済されているが、「次世代への公共信託」という時間的な意味での環境権は、救済されていないということになる。

問題点供〜以犬法崋然享有権」の精神をうたう必要はないのか?

自然享有権の意味するところは、「人が、生まれながらにして等しく有する、自然の恩沢を享有する権利」「自然の一員として、自然の生態系のバランスを維持する権利」「自然自身および将来の国民から信託された、自然を保護・保全する権利」であるといわれている。

自然享有権については、環境権の外延にあるものとみなされており、それは、地域的に限定されない権利であり、権利主体にも、制約のない権利であり、さらに、個人の権利のみでなく、自然自身や将来の世代をも代表する権利であるとの見解が有力である。

さらに、その自然生態系なり景観に接することのできない人々の「非使用価値」に基づく権利を含むとされる。

これらの権利は、防御権としての環境権とは異なり、妨害排除を請求できる権利であるとされる。

すなわち、環境被害の事前の差し止め請求権とともに、事後の現状回復請求権、そして、行政への措置請求権をも有すとみられている。

この権利は、憲法条文に規定するには、いくつかの検討すべき課題が生じるので、憲法前文において、その精神を記載するべきであるとされている。

そして、第25条の2に書かれるべきは、、「特定の国家活動に対する個人の請求権を認める」ことを意図した、環境権そのものについて記すべきであり、韓国での環境権の規定と同じく、ここでは、「環境権の内容および行使に関しては、法律でこれを定める。」と、簡潔に記したほうが、今後の環境権をめぐる憲法違反訴訟を考えた場合、解釈にブレが生じないためにも、よろしいかと、思われる。

問題点掘ヾ超権の権利主体は、なにか?

環境権の権利主体は、自然人(natural persons)であるとの見解が有力である。

ドイツの憲法に環境権を織り込む際、保護する対象を、「人間の自然的な生活基盤」におくか、「自然的な生活基盤」におくか、政党間で、論争となった。

結果、前者の「人間の」の部分が削除され、可決となった。

これは、人間中心主義の敗退というよりは、環境権は生命体中心主義の立場をとることを、確認したものといえる。

今回の自民党の新憲法草案の第25条の2において「(国の環境保全の義務)国は、国民が良好な環境の恵沢を享受することが出来るように、その保全に努めなければならない。」とされているが、その「良好な環境の恵沢を享受することが出来るように」される環境権の権利主体は、国民と限定しているが、ここは、外国人を含む「何人も」なのではないのか?

言葉をかえていえば、具体的には、たとえば、その自然生態系なり景観に接することのできない人々の「非使用価値」に基づく権利は、主張しえるのかどうか、が、明確にされていない。

国から「良好な環境の恵沢を享受する」ように守られるのは、国民なのか、日本に居住する、外国人を含めた「何人も」なのか、すべての生命体なのか、を、明確に定めないと、新憲法施行後も、無用の解釈の混乱を招くものと想像される。

以上、三点を指摘した。

まとめ-改憲後の違憲訴訟想定から逆シミュレーションし、検証してみる必要がある。-

環境権に限らず、特に新しい権利の分野で、新憲法を検証する場合、現行憲法で違憲訴訟とされているどのようなものが、新憲法でまかなわれうるのか、と言う視点で、検証してみる必要がある。

環境権については、これまで、憲法13条の幸福追及権(人格権)と、憲法25条の生存権の援用でもって、環境権の訴訟がされてきた。

この援用による「13条環境権」は、「個人に対する環境の享受が、公権力によって、妨げられない権利」であり、自由権的な性質をもつものであった。

憲法25条の生存権は、通常は、経済的生存権の保障をむねとしたものだが、それにとどまらず、環境的生存権をも、この援用によって保障しようとするものであった。

この「25条環境権」については、この規定から、ただちに、個々の国民が、具体的な請求権を取得することを意味するのでなく、その権利を具体化する法律によって、初めて、具体的な権利となりうるものであるとする見解が有力であった。

これは、国の政治にたいして、指針を示す、プログラム規定(綱領規定)といわれるもので、立法府にたいする立法の義務付けを、憲法サイドから、要請する意味合いをもつものであった。

新憲法で、環境権が位置づけられて、違憲訴訟において、おそらく、変質するのは、次の点であろう。

これまでの環境権は、私権としての環境権の主張のために、13条と25条の援用がされていた。

環境権の私権化によって、民事訴訟において、差止め請求・損害賠償請求を、裁判所に認容させ、公害を司法の力によって阻止しようとする意図が、環境被害者の側に強くあった。

これに対して、新憲法において、環境権が正式に位置づけられることによって、環境権は、私権としての基本権であると同時に、公益を志向した基本権であると言う、二面性を併せ持つことになる。

これまでは、私権としての環境権をもって、民事訴訟に持ち込んだ場合、公権力の公共益と、原告個人の私的利益との利益の比較衡量によって、原告が、その環境被害にたえうる受忍限度を超えなければ、裁判所による差止め請求権・損害賠償請求権の認容は、ならなかった。

しかし、環境権が位置づけられた新憲法においては、これまでの公共益対私的利益間の利益の衡量比較による受忍限度判断に替わり、新たに、公共益と環境の公共益との比較衡量がはかられる必要性が生じてくる。

今後、新憲法施行後に出てくるであろう環境権をめぐる幾多の憲法違反訴訟において、無用の解釈の混乱を招くことにつながらないよう、その観点での、条文の検証が、必要になるものと思われる。
以上

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