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雪景色 憲法論議に環境権を明確に位置づけるために
 


(このサイトを訪れていたたいた皆様へ
サイト記事を書いてから10年以上経過しておりますので、今日的な書き直しをブログ記事の方でしております。
環境権にご興味のある方は、こちらの記事「環境権と憲法改正の動きについて」もご覧いただきますれば幸いです。 筆者から)
(2014年10月18日)




ユートピア的環境権論からの脱出
憲法改正を視野にいれた憲法論議の中で、「環境権を憲法にもりこむべき」との意見は多い。

近時の憲法改正についての各種アンケートを見ても、とくに若い世代を中心に、9条(戦争放棄)論議よりも、環境権についての関心が強いことがわかる。

例えば、1999年4月に読売新聞が行った「憲法に関する意識」全国世論調査においては、環境問題が関心のトップ(37%)を占め、前年まで関心のトップを占めていた「戦争放棄・自衛隊」への関心を抜いた。

ところが、このような関心のたかまりにもかかわらず、では、どの様な概念規定にもとずく環境権を、どの様な形なり表現で、憲法にもりこむかについての議論は、一部「環境法」学者間の見解なり論争を除いては、まったく語られて来なかった。

淡路剛久氏の言葉を借りれば、「現実の社会状況の中では、その有効性を発揮し得ない、ある種のユートピア的な環境権論」に止まっていたといえる。


環境権はこうして生れてきた
そもそも、環境権なる概念は、次のような経緯から、生れてきた。

1969年、アメリカ・ミシガン大学ロー・スクールのサックス教授(Joseph L.Sax)は、「天然資源保全および環境保護法」草案を起草し、それを元に、1970年4月1日、「ミシガン州環境保護法(MEPA)」が、下院に提出された。

これは、提出日に由来し、「エイプリル・フールのジョーク」と呼ばれたほど、画期的な内容のものであった。

すなわち、「大気・水・土地・その他の天然資源または、天然資源に関する公共信託に対する汚染・損傷・破壊について、市民・法人・団体等は、訴えることができる」(MEPA2条1項)というものである。ここでいう公共信託とは、公衆の共同財産である天然資源を、公衆が自由に利用できるよう、行政主体が公衆より信託され、管理・維持する義務をいう。

日本においては、1970年3月、国際社会科学評議会外主催「公害国際会議」において、「環境を享受する権利と将来世代へ現在世代が残すべき自然資源をあずかる権利を、基本的人権の一種として、法体系の中に確立することを要請する」との東京宣言を採択し、環境権を初めて世に問うた。

これをうけ、1970年9月、大阪弁護士会が、「何人も憲法25条に基づいて、良い環境を享受し、環境を汚すものを排除できる基本的な権利」として、環境権を提唱した。


他の基本権の援用から、日本の環境権は、はじまった
環境権は、「環境は、すべての人々のものであり、だれも、勝手にこれを破壊してはならない」という、「環境共有の法理」を、理論的根拠としている。

そして、共有者の一人が、他の共有者よりの承諾をえることなく環境を独占的に支配・利用し、これを汚染することは、他の共有者の権利の侵害として、違法である、としている。

現行の日本国憲法においては、環境権に関する条項がないため、日本国憲法の明記する人権のカタログに含まれていない「新しい人権」の一つとして、環境権を位置づけなければならない。

そのため、すでに日本国憲法が明記している基本権のうち、その援用によって、環境保全を要求しうる権利の集合を、環境権としている。

環境権として援用しうる基本権の代表例として、憲法13条の幸福追及権(人格権)と、憲法25条の生存権がある。

憲法13条の幸福追及権は、マッカーサー草案において、「right to pursuit of happiness」と書かれたものの直訳であるが、この概念の中に、無名の人権やリストアップされなかった人権、そして、今後の社会変革の中で出てくるであろう新しい人権(環境権以外には、知る権利、プライバシー権など)を救済しうる根拠となるものが含まれてくる。

この援用による「13条環境権」は、「個人に対する環境の享受が、公権力によって、妨げられない権利」であり、自由権的な性質をもつものである。

憲法25条の生存権は、通常は、経済的生存権の保障をむねとしたものだが、それにとどまらず、環境的生存権をも、この援用によって保障しようとするものである。

この援用による「25条環境権」は、「環境の保全のための積極的な施策をとるよう、公権力に対して、要求する権利」であり、社会権的な性質をもつものである。

この「25条環境権」については、この規定から、ただちに、個々の国民が、具体的な請求権を取得することを意味するのでなく、その権利を具体化する法律によって、初めて、具体的な権利となりうるものであるとする見解が有力である。

これは、国の政治にたいして、指針を示す、プログラム規定(綱領規定)といわれるもので、立法府にたいする立法の義務付けを、憲法サイドから、要請する意味合いをもつものである。


差し迫った公害問題が、日本の環境権論の出発
この様に、すでに憲法上に規定されていた基本権を援用し、早急に環境権を主張せざるを得なかったのは、1970年代の日本における公害の深刻化等の迫られた環境問題が、時代の背景にあったことによる。

そのため,憲法を根拠とした環境権の私権化によって、民事訴訟において、差止め請求・損害賠償請求を、裁判所に認容させ、公害を司法の力によって阻止しようとする意図が、環境被害者の側に強くあった。

しかし、それら公害訴訟等で、裁判所は、すべての判決において、環境権という権利を憲法に根拠づけて、認容することはできないとする見解を示した。

その主な理由は、次のようなものである。
第一は、環境権を認める実定法上の根拠がない、というものである。
憲法13・25両条は、国の責務を宣言する綱領的規定であって、個々の国民に直接、具体的権利を与えるものではないとする見解である。

第二は、環境権は、その基本的な属性が曖昧で、差止め請求の根拠となり得ない、というものである。

第三は、環境権を認めなくとも、国民の生命などの侵害に対しては、人格権や財産権を根拠にし、差止め請求・損害賠償請求ができる、というものである。

第四は、地域住民は、景観・環境そのものに利益・権利を得ているのでなく、観光サービスなど、景観・環境などを利用し、経済行為をすることによって、利益(反射利益という)・権利を得ているのであり、これは、差止め請求の根拠たりうる権利や利益でない、というものである。
そのような状況のなかで、わずかに、大阪空港公害訴訟控訴審判決(昭和50年11月)において、「個人の生命・身体・精神および生活に関する利益は、その総体を、人格権ということができる」として、環境権は認めないものの、人格権(憲法13条)の侵害の問題として、差止め請求と損害賠償請求を認容した例がある。


日本の環境権確立の失敗原因はなにか
この様に、1970年から今日に至るまでの、日本の環境権確立への歩みは、アメリカにおける環境権確立への動きと、そう時を経ずしてスタートしたにもかかわらず、学説としては、有効な論議の展開を生み出しはしたものの、憲法を根拠とした環境権による司法救済という点では、ほとんど、効力を発することはできなかった。

では、現行憲法の基本権の援用により環境権を確立することの限界は、どうして生じたのであろうか。

第一は、憲法を根拠とした環境権の私権化によって、民事訴訟において、差止め請求・損害賠償請求の裁判所による認容による司法救済のみを意図したため、司法・立法・行政の適切な対応の組み合わせによる、総体としての実質的な環境権の確立に失敗した。

これは、人格権としての環境権と、私権としての環境権を同一視したがための混乱である。

第二は、環境権の権利の対象となる「環境の内容の範囲や地域的範囲」「権利侵害の概念」「権利者の主体と範囲」などが、不明確であり、差止め請求の根拠とするには、薄弱であった。

第三は、環境問題がますます広域化・複合化する中では、人格権侵害の問題として、個人を原告とした訴訟をおこなっても、私益と公益との利益の比較衡量において、受忍限度以上の環境被害との司法判断を引き出しえなくなってきた。

第四は、住民個人の景観・環境よりの利益が、司法の場において、反射利益とみなされるかぎり、憲法上明記の、他の基本権の援用による環境権では、差止め請求の根拠となり得なかった。

第五は、私権としての環境権による民事訴訟では、原告個人への環境破壊による加害行為が、具体的に立証されなければ、原告の請求は認容されない。したがって、私権にもとづく環境権のみによっては、緩慢で広範囲にわたる複合化した暴露による環境被害を、司法は救済できない。
この様に、原告の個別的な利益とみなされえぬ利益を、私権とみなし、憲法を根拠とした環境権を主張することには、限界がある。

これらの限界から、新しい憲法において、環境権を、独立した「新しい人権」として、位置付けることが必要であるとの認識が生じてきた。


日本の動き、世界の動き
では、日本でこれまで発表されている憲法試案や、諸外国においては、どの様な形で、憲法に環境権なり環境保護規定をもりこんでいるのか。

実際の例をみてみよう。

読売新聞憲法改正試案
1994年11月、読売新聞社は、憲法改正試案を発表し、各方面での話題をよんだ。

この試案における、環境権の条項は、次のとおりである。

第28条(環境権)
(1)何人も、良好な環境を享受する権利を有し、その保全に努める義務を有する。
(2)国は、良好な環境の保全に努めなければならない。
「平成憲法」愛知私案
敬愛する衆議院議員愛知和男先生がつくられた「平成憲法」愛知私案第3次改定版(2000年2月)における、環境権の条項は、次の通りである。

第33条 環境に関する権利及び義務

@ 何人も、良好な環境を享受する権利を有するとともに、良好な環境を保持し且つわれわれに続く世代にそれを引き継いでいく義務を有する。

A 国は良好な環境の維持及び改善に努めなければならない。
各国憲法における環境権の例
1972年のストックホルム人間環境宣言以後、環境権なり環境保護規定を憲法に位置付ける国は、急増している。

憲法上に、環境権または環境保全規定について、なんらかの条項を設けている国は、条文を捕捉しうる限りでは、別記1の通りである。

また、アメリカでは、連邦憲法修正第9条に「憲法中に特定の権利を列挙した事実をもって、人民の保有する他の諸権利を否認し、または軽視したものと解釈することはできない。」との規定に、新しい人権としての環境権の権利があるものとみなしている。

さらに、国家環境政策法(NEPA 101c)や州憲法レベル(別記2参照)で、環境権に関する条項を設けている。

実例をあげ、いくつかの国の憲法における環境権の条項をみてみると、次のようになる。

  1. 韓国
    第35条(環境権)
    (1)すべて国民は、健康でかつ快適な環境の下で生活する権利を有し、国家および国民は、環境保全のために努めなければならない。
    (2)環境権の内容および行使に関しては、法律でこれを定める。

  2. スペイン
    第45条(環境権、環境保全の義務)   
    (1)何人も、人格の発展にふさわしい環境を享受する権利を有し、および、これを保護する義務を負う。
    (2)公権力は生活水準を維持・向上し、および、環境を保護・回復するために、あらゆる自然保護の合理的利用に留意する。このため、公権力は、国民全体の連帯および支持を得なければならない。
    (3)前項の規定に違反した者については、法律の定める条件のもと、刑事罰ならびに損害賠償義務を課する。

  3. ドイツ
    第20a条(自然的生活基盤の保護義務)
      
    国は来るべき世代に対する責任を果たすためにも、憲法に適合する秩序の枠内において、立法を通じて、 また法律および法の基準にしたがって、執行権および裁判を通じて、自然的生活基盤を保護する。



     
別記1 「憲法上に環境権または環境保全条項を規定している主な国」
アゼルバイジャン、アルゼンチン、アルメニア、アンゴラ、アンドラ、イラン、インド、エストニア、オーストリア、オマーン、オランダ、韓国、カンボジャ、キューバ、ギリシャ、グルジア、クロアチア、コンゴ、スウエーデン、スペイン、スリランカ、スロバキア、スロベニア、タイ、中国、チェコ、ドイツ、トルコ、ナミビア、ネパール、ノルウエー、パキスタン、パラグァイ、ハンガリー、フィリピン、フィンランド、ブルガリア、ベラルーシ、ポーランド、ポルトガル、マケドニア、マダガスカル、南アフリカ、モーリタニア、モンゴル、ユーゴスラビア、ラオス、リトアニア、ロシア


別記2 「州憲法に環境権にかんする条項を設けているアメリカの主な州」
イリノイ、マサチューセッツ、ミシガン、ペンシルバニア、ロード・アイランド、テキサス


今後検討を要する課題
以上の試案、ならびに、すでに憲法に環境権をおりこんでいる諸外国の例から、今後の日本の憲法論議のなかで、環境権について、検討並びに配慮すべきと思われる諸点は、次の通りである。
  1. 憲法上に規定される環境権は、抽象的権利か、具体的権利か

    憲法に環境規定を明記している諸外国のうち、この規定を、裁判上、直接適用している国は、ほとんどない。

    ポルトガルなど、一部の国においては、環境権を直接保護しているが、その行使は、別の法律の規定に従うものとしている。

    では、環境権は抽象的権利であるかといえば、そうでなく、憲法上に環境権を明示することによって、司法から立法・行政に対し、環境権を無視し得ぬ、強い規範を示すことになる。

    この強い規範性により、立法過程において、環境権の精神が、実定法に反映されてくる。

    また、これまでの人格権の援用によってはカバーできない領域(例えば、景観・環境の侵害に対する住民の環境権の主張について、これまで、反射利益として、裁判所に否定されていた領域)で、憲法規定の環境権にもとづく新たな差止め請求権の認容をもとめる訴訟の発生は、予測しうる。

  2. 実質的な環境権の確立か、司法救済を目的とした環境権の行使か

    前項に記載のとおり、憲法上での環境権の明記が、立法・行政各段階に、無視し得ぬ強い規範を示すことになり、これまでのように、憲法を根拠とした環境権の私権化により、司法救済に過度に依存しなくとも、司法・立法・行政の適切な組み合わせにより、実質的な環境権の確立をはかることができるものと思われる。

  3. 環境権は、人間中心主義か、生態系中心主義か

    ドイツの憲法に環境権を織り込む際、保護する対象を、「人間の自然的な生活基盤」におくか、「自然的な生活基盤」におくか、政党間で、論争となった。結果、前者の「人間の」の部分が削除され、可決となった。

    これは、人間中心主義の敗退というよりは、環境権は生命体中心主義の立場をとることを、確認したものといえる。

  4. 国家に環境保護義務を求めるか

    前述の「読売試案」と「愛知私案」においては、いずれも、前段で環境権を宣言し、後段で国家の環境保護義務を明記している。

    国が、公共財である環境の保護義務を憲法上に明記することによって、立法部門にたいし、環境優先で立法にあたることへの、指令的な力を加えることになる。

    この国家の環境保護義務は、国家目標規定であって、この規定が、特定の国家活動に対する個人の請求権を認めるものではないとの見解がある。

    ただ、これらの保護義務を国が怠った場合、国民は、その義務を履行するよう国に迫りうる「規制権限発動請求権」ともいうべきものが発生する可能性はある。

  5. 現世代が、後世代のために環境の受託者として果たす責任を、環境権にもりこむか

    現行憲法の前文、第11条、第97条に、「将来の国民より信託された権利」の規定があるが、これまでは、環境権の援用としては、この条文は、使われなかった。

    前述の「愛知私案」においては、「われわれに続く世代に、権利を引き継ぐ義務を有する」との規定がある。

    愛知氏は、私案の解説において、環境権について、「良好な環境は一代で失われる危うさを持ったものであるから、環境権に関しては、現在の世代が未来の世代にそれを引き継ぐ義務があることを、とくに明記した。」としている。

    グルジアの憲法や、アメリカ・ぺンシルバニア州憲法、イリノイ州憲法などでは、後世代への保護義務について触れている。

    問題は、環境権の外延性が、時間的、空間的にどこまで及ぶか、ということである。

    外延性を拡大することによって、環境権の定義自体が、曖昧になってくる。

    また、環境権が他の基本権に優先されない以上、環境権の外延としての権利が拡大することによって、国民の他の分野における基本権との衝突も、多くなりうる。

    未来永劫の国家目標規定として、「国家の環境保護義務」が憲法上に明記されていれば、あえて、この規定をする必要はないものと思われるが、要は、10記載の「公共信託」の概念が日本に育つかどかにかかっている。

  6. 公共益と環境の公共益との、利益の比較衡量は、可能か

    環境権は、私権としての基本権であると同時に、公益を志向した基本権でもある。これまでは、私権としての環境権をもって、民事訴訟に持ち込んだ場合、公権力の公共益と、原告個人の私的利益との利益の比較衡量によって、原告が、その環境被害にたえうる受忍限度を超えなければ、裁判所による差止め請求権・損害賠償請求権の認容は、ならなかった。

    しかし、憲法上に環境権が明記されることによって、これまでの公共益対私的利益間の利益の衡量比較による受忍限度判断に替わり、新たに、公共益と環境の公共益との比較衡量をはかられる必要性が生じてくる。

  7. 環境権の権利主体は、なにか

    環境権の権利主体は、自然人であるとの見解が有力である。

    しかし、環境権の対象となる環境被害の対象地域の広範化、加害原因の複合化、被害住民の被害の多数化と多様化によって、個人のみを原告適格とすることに、問題が生じてきている。

    同一の環境問題に対し、数個の訴訟が独自にすすめられること、多くの利害関係者がいるにもかかわらず、訴訟費用や労力が、一部のものの負担となっていること、多数の原告が一律の請求ができず、繁鎖な個別の立証をしなければならないこと、などの問題である。

    フランスの自然保護法第24条4−5項では、団体訴訟(クラス・アクション)が認められているが、今後、これらを含めた訴訟手続きの見直しが必要となってくるのではないか。

    また、自然そのものに原告適格をもとめる「自然の権利」裁判問題は、憲法上における環境権の明記によって、これまでの「景観・環境にたいする住民の直接的価値は、反射利益であり、認めない」とする司法判断が回避されることによって、自然を原告とすること自体が不要となる。

  8. 憲法上規定の環境権に、補完的立法措置は、必要か

    簡潔を旨とする憲法の条文では、詳細な概念規定は困難である。

    しかし、先にものべたように、環境権ほど、権利の外延が広範囲で多岐にわたるものはないのではなかろうか。

    その外延性の広さが、逆に、環境権の概念を曖昧にし、結果、その効力を薄めることにつながりかねない。

    環境基本法や新アセス法における、環境権の位置付けや、環境権とこれまで援用してきた、他の名前の基本権との領域の再編成などをふくめた、補完的立法措置は必要となるのではないか。

  9. 「自然享有権」を、憲法上に位置づけられるか

    1986年、日本弁護士会の人権擁護大会で、「自然享有権」なる概念が提唱された。

    この概念の意味するところは、「人が、生まれながらにして等しく有する、自然の恩沢を享有する権利」「自然の一員として、自然の生態系のバランスを維持する権利」「自然自身および将来の国民から信託された、自然を保護・保全する権利」であるといわれている。

    したがって、この権利は、地域的に限定されない権利であり、権利主体にも、制約のない権利であり、さらに、個人の権利のみでなく、自然自身や将来の世代をも代表する権利である。

    さらに、その自然生態系なり景観に接することのできない人々の「非使用価値」に基づく権利を含む。

    これらの権利は、防御権としての環境権とは異なり、妨害排除を請求できる権利である。

    すなわち、環境被害の事前の差し止め請求権とともに、事後の現状回復請求権、そして、行政への措置請求権を有すとみられている。

    この権利を、憲法上に規定するには、いくつかの検討すべき課題が生じる。
    第一は、公権力が自然に対して行った行為によって、個人の「自然享有権」なる権利を、どの範囲で侵害したのか、その処分性(公権力の行為が、国民の権利に、どのような具体的変動を及ぼしたのか。)が不明確なのではないか。

    第二は、7の「環境権の権利主体」でも述べたように、自然自身が原告となる場合、原告適格性があるのか。

    第三は、環境権の外延としての自然享有権が、所有権という基本権に対し、エコロジー的に制約をはかることは、許されるのか。

    第四に、将来の国民により信託された自然享有権は、4の「国家目標規定としての環境保護義務」によって、十分まかなわれるのではないのか。

    第五は、国境を越えた地球環境財に対する日本国民の憲法上の権利と義務を、「自然享有権」の概念でまかなうことはできるのか、
    …などの諸点についての検討である。

  10. 公共信託の概念は、日本で定着しうるか

    環境権のそもそもの発祥地アメリカ・ミシガン州では、環境権の対象が、単に天然資源ばかりでなく、州民の利益のために、州が州民にかわって天然資源を受託し管理するという公共信託にまで、およんでいることは、前述の通りである。

    公共信託の適用範囲は、次のようなものである。
    (1)海浜、渚、潮間域、河川、(2)公園、道路、共有地、(3)野生生物、天然資源、大気、水など、
    公共信託によって守るべき公共的な利益としては、(1)レクリエーションのための利用、(2)天然資源の保全、がある。

    これらの天然資源の環境が破壊されたり、アクセスに障害が出た場合の出訴資格は、州民だけでなく、州そのものにまで与えているケースが多い。

    その場合は、公共信託を大義として、公権力が司法の場をつかい、私権を制限することもありうる。

    公共信託に似た概念として、日本では、入浜権の考え方がある。

    入浜権は、環境権の延長線上にある「個別的環境権」と呼ばれるもので、ほかに、「眺望権」「静穏権」「景観権」「安全権」「公園等利用権」などが提唱されている。

    入浜権は、「海の入会権」といわれるように、入会権から派生した考えに基づくものだが、入会権と異なるのは、
    (1)収益と直接むすびつかない内容を持っていること、
    (2)入会権が所有の概念として「総有」という、団体の拘束のもとでの使用・収益権をもっているのに対し、入浜権は、私権としての意味合いが強い、という点である。

    入浜権は、二つの権利からなり、一つは、海浜に自由に立ち入りし、自然物を自由に使用出来る権利、もう一つは、海浜に至るまでの土地を自由にアクセス・通行できる権利である。

    これらは、入浜慣行という社会事実を基盤としているもので、妨害排除請求権をもつものの、それは漁業権や付近の住民の生活権(人格権)に劣後するものである。

    海浜の自然公物の自由使用権や海浜までのパブリック・アクセス権を含んでいる点では、公共信託の概念と似ているが、公権というよりは、私権という性格が強い点、公共信託の概念にはなじみにくい。

    もし、日本においても、環境権の対象に、公共信託の考え方を取り入れれば、前述の(1)後世代より信託された環境資産を環境権の対象にするか、(2)国家に環境保護義務を与えるか、(3)自然の権利の原告適格はどうか、などの問題は、全て解決しうることになる。

    ただ、私権の制限など、憲法上の他の基本権と相克する部分をどうするかが、課題としてある。

国境を超え地球公共財をまもる「開かれた環境権」の位置付けを
以上、現行憲法における他の基本権の援用による環境権の限界と、憲法に環境権を明記することによって、なにが変わるのかについての諸点について、述べてきた。

私は法律が専門でないので、憲法を論じる資格はないが、環境問題をライフワークとする一国民として、この問題を探ってきた。

しかし、ここにきて、最後までひっかかっているのは、憲法によって守るべき環境財は、一国の憲法の枠を遥かに超えた、地球公共財でもあるということである。

我々は、狭隘な一国のなかでの、環境権を論じる以前に、国の概念を超え「開かれた地球公共財の一部として、日本がかかわる公共財についての環境権」の構築を目指すには、なにが必要で、そのための基本権としての憲法規定の環境権は、いかなる概念であらねばならないかを、先に論じる必要があるのではなかろうか。

そして、その内容は、新憲法の前文で、高らかにうたわれるべき崇高な精神に貫かれたものでなくてはならない。

(2000年 2月 21日更新)


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