Sasayama’s Weblog


2006/03/12 Sunday

新しいインドのための新しいロジック

Filed under: 未分類 — 管理人 @ 22:10:53

2006/03/12
 
null3月10日付けのThe Telegraph紙「NEW LOGIC FOR NEW INDIA - There was no condescension in Bush’s offer of friendship 」(Swapan Dasgupta氏の記事)は、今回のアメリカ・ブッシュ大統領のインド・パキスタン歴訪と、ブッシュ大統領とインドのシン首相との首脳会談における「原子力発電など民生用の核技術をインドに提供する」ことの合意の真意について、次のように伝えている。

最後はスキャンダルで失脚した元大統領リチャード・ニクソン氏は、アメリカ国内での不評の時でさえ、インドにおいては、常に歓迎される立場であった。

1971年、(ニクソンは、中国とのピンポン外交の延長として、中国の国連加盟実現をサポートし、その結果)中国が、共産主義後の孤立から、ニクソンによって、救われた恩義を、中国は忘れなかった。

しかし、ブッシュ大統領が引退したのちも、今回のインド訪問におけるシン首相の首脳会談で述べられた、「原子力発電など民生用の核技術をインドに提供する」という、インド特別扱いの合意は、のちのち、ブッシュ大統領に対するインドにおける高い評価の元でのステータスを勝ちうるものとなるであろうというには、あまりにも、まだ、尚早である。

しかし、将来、歴史家が、今21世紀でのインドの外交の歴史をトレースした場合、牢固とした冷戦構造をひっくり返したという点についての唯一の功績については認めなければならないであろう。

それは、単に、この常に物議をかもし出しているブッシュ大統領が、インドに対して手を差し伸べる努力をしたということについてだけではない。

21世紀における世界秩序において、民主化インドが果たすであろう、とてつもない重要性について、理解しえた、世界最初の指導者がブッシュ大統領であった、という点についてである。

インドとアメリカの原子力エネルギーについての理解は、自然経過の過程で、起こってきたことではない。

これまで、米・印両国は、交渉しうるにいたらない、対立関係にある立場にあった。 

3月2日における分離協定は、実際は、アメリカ議会の批准の手続きを経て、制度化され、国際的に容認されうるのであるが、もし、ブッシュが、インドのこの問題についての敏感性に適応させて、政治的決断をしなかったならば、この分離協定は、実現しなかったであろう。

つまり、ブッシュ大統領は、インドのために、わざわざ、核保有五カ国の主賓席に、新たに、席を設けてあげたようなものだ。

インド議会が、共産主義者とイスラム票に依存しているという、インド議会の特殊事情に助けられて、ブッシュ大統領の二日間のインド訪問のこの特殊な一面は、十分にインド国内で、宣伝されなかったばかりでなく、評価もされなかった。

もともと、今回のブッシュ大統領のインド・パキスタン歴訪については、たいして、宣伝すべき要素も、評価すべき要素もなかったはずだ。

インドのシン首相側は首相側で、インドの世界的な政治・外交上の成功を誇示する必要も、なかった。

ブッシュ大統領のほうは、アメリカ議会のほうに、歴史的なお土産を持ち帰らなければならない必要に迫られていた。

しかし、アメリカ議会だけが、このことで責められようか?  

インド人民党は、7月18日と3月2日の合意につながるプロセスにおいては、インド政府が明らかにすべきいくつかの重要なポイントがあったとはいえ、過度に慎重であった。

したがって、歴史的行程を前進させることを歓迎するのは、メディアと企業の場に持ち込まれた。

インドは、まだ、新しい世界的地位に対処するには、精神的に十分用意できているとは見えない。

インドのネルーや、Nehruviansと称せられるネルーの継承者であるV.K. Krishna Menon 氏のような方は、国際的問題に対して、情熱的なまでの関心を持っていた。

不幸なことに、彼らの国際的関心事は、好戦的(CHIP ON ONE’S SHOULDER)なものであった。

ネルーは、アングロサクソン人の慣習に文化的に浸っていた人であるが、彼の熱情を持って、すべての植民地化した国民とともにいくことを示した人であった。

同様に、1950年代の外相であったMenon(Krishna MENON)氏も、宣伝者的立場から逸脱することをせず、彼は、英国におけるインド連盟のヘッドとしての役割に終始した。

世界情勢における優等生立場をとろうとする試みの中で、インドは、結局は、説教好きで、信心ぶった、退屈な国に終わるであろうと、Menon氏は、記述している。

イギリスやアメリカの要人たちは、マウントバッテン(Mountbatten)(インド総督)派や、イギリス・ロンドンのハムステッド(Hampstead)街に入り込んだリベラル派を除いては、ロンドンで買い物はするが、モスクワが天国のようなフリをする熱心なインド人よりは、1958年のパキスタンのアユーブ・カーン(Mohammad Ayub Khan)や、セイロンのコテラワラ首相(John Kotelawala)のほうが、なじみがあって気楽のような気がする。

もっとも、インディラガンジーについてみれば、彼女の凶暴なまでの国益の支持にもかかわらず、気味のわるいほどの高みへの傲慢な主張を伝えた。

屈折したスノビズムに浸ったのは、単に指導者ばかりではない。

西側世界に向けての偽装された憤慨というものは、国家的哲学であったし、結果、それは、悲惨な政策選択につながった。

インドに充満していた怠惰と、無能力は、英国植民地の遺産のせいにされた。

英知と企業家精神は、退けられ、自給自足と第三世界化を名分とした平凡さが歓迎された。

エコノミストや歴史家は、お見通しのように、悪人扱いだった。

経済学者で「 Free Trade Today」の著書でも知られている経済学者ジャグディシュ・バグワティ(Jagdish Bhagwati)教授(インドが社会主義順応をする時代に、早い時期に、避難した一人。)は、次のように言っている。

「経済学におけるいかなる初歩的ミスも、あなたが欲している推論にとっての正しい前提を素直に仮設することによって、深遠な真実に変えることが出来る。インドは、誤れる前提から予期された結果をえるという、暴政に見舞われていた。」

この問題は、市場経済学の開始や、核兵器の獲得によっても、終了しているものではない。

数年前、VSナイポール 〔Vidiadhar Surajprasad Naipaul 西インド 諸島トリニダード出身のヒンドゥー系作家)は、英国が最終的に撤退したあとの50年間の非植民地の問題に類した質問をしたところ、、「政治的公正」運動のトップから、予期せぬ敵意を直面に受けた。

この他人の気持ちを考慮しない、不快な真実は、知的仮定の再吟味をしようとするものではない。

先月、the Indian Council for Cultural Relations(これは、Nehruviansといわれるネルー信奉者たちが、著名なアーティストたちに呼びかけて後援を依頼し、母体が出来たものなのだが。)が主催して、インド文学を第三世界の経験に結びつけるセミナーを開催した。

インドの作家が西洋の市場において、インドの慣用句と経験を探しているときに、エジプトやシエラレオネ共和国での抑圧された民の声とを不自然に結び付けてしまおうとすることは、まったくの不合理性を持つものであることは、明らかである。

わかりにくい新国際情報秩序というものの持つ善というものが、前世代の遺物によってまだ宣言されているように、表向きのインドは、今世紀の、生意気で自信過剰なインドとは、十分には、折り合いをつけてくるまでにいたらなかった。

ブッシュ大統領が早くから察知していたインドのもつエネルギーと企業家的な活力は、まだ、多くの重要な意思決定の領域の中に、埋もれてしまっている。

より広い世界と、相互作用しているパラノイアの影で、新しいインドへの無理解があるのだ。

市場指向型経済や規制緩和を志向してからたった15年しか経っていないインドだが、この短い期間の間でも、インドは、恐怖に次ぐ恐怖を経験してきた。

WTOの庇護のもとで、ためらいながらも、規制された国際貿易を導入したのだが、多国籍企業によるインド経済の買収の恐れに遭遇したこともあった。

ケーブルテレビジョンが、(死人の街)アー ザムガル(Azamgarh)の不幸な村民の姿を人気テレビドラマのBaywatch に映し出し、陰険な文化帝国主義の犠牲になることへの恐れへのトリガーになった。

ほとんどあらゆる点で、これらの恐怖は、間違って置き換えられてきたということがわかる。

インドそれ自身のもつ、インド的創意や、文化的癒しは、インドをして、市場のルールを、口伝えに表していた。

そのいい例が、クリケットである。

インドに社会主義がはびこったときに、クリケットのゲームをコントロールするのは、イギリス人とオーストラリア人であった。

今日、いかなる主なクリケットの判定においても、インドの利益を分析することなくして、決定はなされえない。

70年代に、ヨークシャー生まれのフレッド・トルーマン(Trueman, Fred)が、インドのクリケットをありきたりのスポーツとして軽蔑したことがあった。

彼は、いかなるMCC(クリケット協会)の時代も、インドを旅行したことがなかった。

おなじヨークシャーの伝説的人物のGeoff Boycott氏は、インドテレビでの夕食時に歌わなければならない。

彼のアクセントは、30年前に、イギリスにおいて、忍び笑いを引き出していたピーターセラー氏のインド風振る舞いのように、古風であると、インド人には、みなされている。

この数十年での体験には、偏狭な仲間や、無知な文化的に盲目な愛国主義者たちによって、葬り去られるには、あまりに、意味のあるものを有している。

経済的に自由化されたインドが、世界に対峙するときは、いつでも、インド自身が有利になるように、勢力の均衡化が図られることで、成功してきた。

ブッシュからの友情の申し出には、これっぽっちの謙遜もないし、パキスタンと違って、彼が、兄貴づらしての finger-wagging(自ら高みに立っての『いけません』調の仕草で、人差し指を左右に降らす動作)での訓練に着手もしなかった。

ブッシュ大統領は、インドに、援助や無償供与を浴びせることもしなかった。

彼は、インドに対して、世界の資本主義での正当な役割を想定し、インド自身が豊かになることを懇願していた。

彼の申し出は、前世代の人間がもたらした刺激物の除去を容易にすることにある。

アメリカ人がするように、インド人が当然と考えている民主主義についての高尚な話のすべては、どうでもいい話なのである

ブッシュは、相互に有益な取引をするために、外では、テキサスなまりの言葉をしゃべっていた。

ネールは、憎しみに満ちた怒りを楽しむ異議申立人のように、ブッシュのロジックを理解することが出来なかっただろう。

彼は、インドの暗黒時代の典型的存在であった。

インドという国は、進んだ。

そして、若い世代は、 サルマン・ラシュディの小説、「真夜中の子供たち」とは違って、怒りをもって、浪費された50年間を振り返る必要もない。

彼らは、インドの従属的地位以外は、失うものは何もない。

彼らにとって、世界は、勝つためにあるのである。

終わり

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