2009/03/05(Thu)
昨年来、今日のこの記事「国会議事堂前の梅は横手の大屋梅? 故・笹山茂太郎さん植えた説」にあるように、私の父が、郷里の梅の木を国会の庭に植えたのではないか、との確証を確かめる電話が相次いで、ちょっと、迷惑している。
遺族としては、ここは、有難がるべきなのだろうが、第一、一国会議員が郷里の花木を国会内にあちこち植えたのでは、それこそ、国会のヤードが、雑木だらけのジャングルになってしまうのだし、いくら、郷土愛が強くとも、そのような形で、もし、父が郷土愛をあらわしたとなれば、稚拙・偏狭な我田引水の郷土愛を父はしめしたということになってしまうのだから、そのような質問に対しては、おそらく、ありえない話、どなたかが作ったフィクションだ、と、こたえることにしている。
それでも、納得できない郷里のひとたちが、先月、国会にたしかめにいったようなのだが、その気持ちもわからないではないのだが、しかし、正直、戸惑っている。
ばかりか、大屋梅国会見学に名を借りた特定候補の選挙運動の刺身のツマにもなりかねない。
で、その時に、その代表の方に言ったのだが、「国会内の庭に一国会議員の要請で、そのような花木を植えることはありえない。
おそらく、植えたとすれば、憲政記念館の庭ではないですか?
なぜなら、父は、現役当時、船田中先生の日本さくらの会と、川崎秀二先生のはなみずきの会の責任者をかねていて、当時、憲政記念館にいた相馬雪香さん(尾崎咢堂さんの三女、私も、父の秘書時代、相馬雪香さんとは、川崎さんのはなみずきの会のお手伝いで、接触があった。)とも懇意にしていたから、その縁での可能性はあるかもしれない。」と、いっておいたが、果たして、憲政記念館の庭に見つかったかどうかは、その後聞いていない。
さらに、「まあ、このことについて、確かめたい気持ちはわからないではないが、そこまで、この謎にとりくみたいのなら、もうすこし、大きくかんがえられて、たとえば、国会の中の梅の木ではなく、茨城・水戸の梅(水戸の偕楽園は、1842年(天保13年)に水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が「衆と偕に楽しむ場」として開設したものですが、それ以前に、梅が殖産花木として、特に佐竹氏統治の時代に、水戸の地に植えられた歴史というものはあるんでしょうかね。調べていないので、なんともいえないのですが。。)と、私の郷里の梅とのDNA鑑定比較でもされたほうが、よっぽど、生産的でよろしいのでは?」、とのアドバイスもした。
というのは、私の郷里の先祖のもともとは、佐竹義宣氏が、常陸の国から秋田に国替え(1602年.慶長7年)になったときに、それにともなって移住してきたものの残党・末裔の村であるからだ。
(私の家の過去帳の一番先頭記載のものの死亡年が1703年だから、大体、符合している。)
もっとも、一説には、これらの梅は、1200年前の天長年間にすでに植わっていた、との説もあり、混沌としており、これらの水戸由来仮説は成り立たないのかもしれないが。
佐竹氏が水戸の梅の木を、国替えのさいに、秋田にまで持参したとなれば、国会内の梅の木以上の、よっぽどの歴史ロマンがそこにうまれるのだが。
ところで、佐竹氏といえば、その末裔の秋田市長の佐竹氏が、この4月の秋田県知事選挙に挑戦されるようである。
このままだと、平成の版籍奉還が、実現しそうな雲行きである。
しかし、このことが、果たしていいことなのか、悪いことなのか、判断に苦しむところではある。
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