2005/08/09(Tue)
突然の解散というのは、なんとも、すさまじいものがある。
私の経験したハプニング解散の第一回目は、1980(昭和55)年5月16日に「大平内閣不信任案」が、賛成243票、反対187票で可決された時だった。
そのころ、私は、前年10月7日の総選挙に初挑戦し、敗れ、浪人中だった。
その日は、どうも、雲行きが怪しいというので、東京行きの特急列車に飛び乗った。
秋田から福島あたりに来ると、すでに、駅頭で売られている福島民報が、解散を伝えていた。
この後、ハプニングはまだ続き、選挙中に倒れ入院していた大平首相が投票の10日前に、心筋こうそくで急逝した。
当時は、立会演説会というものがあり、その後の立会演説会では、私たちは、黒ネクタイを締めて、演説し、勝利した。
二回目のハプニング解散は、1993(平成05)年06月18日の宮沢内閣不信任(255対220で可決)による解散であった。
このときも、私は浪人中で、地元での会合の合間にテレビで、不信任案可決を見た。
自民党分裂と新党立ち上げと、あわただしい、その後が続いた。
それこそ、修羅場に近い毎日だった。
政党の分裂と解散が重なると、なんでもありの世界となる。
政界が、夜盗の世界と対して大して変わらない場と化すのを、まざまざと、この目で見た。
もっとも、このときには、前段があった。
前の年の1992年5月に、細川さんが、日本新党を結成し、1993年の6月27日の東京都都議会選挙で大勝した。
その余波を買って、いわゆる新党ブームが、衆議院選挙を揺るがしたのであった。
このとき、私は、ポスターの写真をスタジオで撮り終え、東京都議会選挙での日本新党の躍進結果を聞き、その時点で、私自身の勝利を確信し、結果、そのとおりとなった。
この二つのハプニング解散に比べると、今回の小泉ハプニング解散は、大分、要素が異なる。
わくわくするものが、あまり無い。
新時代の到来を予感させる受け皿というものが感じられない。
同時に、体を張って、党を割るという事態も、このままでは見られないようだ。
ということは、悲劇性も、見られないということになる。
しかし、そうはいっても、政権政党の歴史の分岐点は、意外と近いのかもしれない。
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