2003年05月27日
http://www.pkarchive.org/column/052403.html の仮訳です。
先進各国でデフレの兆候にあるのは、日本についでドイツだが、アメリカは、まだ差し迫った危機状態にはない。
本質的な危機はデフレにあるのではなく、流動性の罠という名の「どろ沼」に閉じこまれてしまうことにある。
デフレは、むしろ、遅行指標であるからだ。
物価の下落に対して政策的に対処することは、むしろ簡単だ。
問題は、流動性の罠にとらわれてしまうことだ。
金利をいくら下げても、完全雇用到達に至らない。
そして、金融政策は、その有効性を失っていく。
いったん流動性の罠にとらわれると、厭なことばかり起きてくる。
物価の下落で、人々は、更なる物価の下落を期待して消費を手控えはじめる。
デフレは、収入の低下をも意味する。
そのことは、将来の収入増加を当てにしての、ローンによる、住宅の購入を手控えさせる。
このように、デフレは、人々の消費や借入への意欲を、ともに失わせる。
こうして、悪循環が始まる。
デフレは失業を増加させ、生産設備の遊休化を招く。
そして、これらは、更なる物価と賃金の低落をドライブし、更なるデフレを加速させる。
10年前までは、このようなデフレの恐怖は、単なる理論上の恐怖として退けられてきた。
しかし、日本では、この理論的に恐れられた恐怖が、現在、現実で進行中である。
5年前、IMFレポートで、私(クルーグマン)や他の学者が、この日本の現象は、他の国のどこでも起こりうる事態であると指摘した。
「その他の国々においては、現在ドイツを除いては、まだデフレの恐れはないではないか。」と問う向きもあるが、それは愚問である。
そして、何よりも、日本が、現在の状態を脱するには、相当の時間がかかるということを、今胸に刻んでほしい。
日本がデフレに陥ってきたこれまでのここ10年の経緯を見ると、まさに、今、日本以外の国々が直面している状態と、極似していることに気づく。
現在のわれわれが直面している状況は、かつての日本と同じく、急激な景気下降なのではなく、失業率の低下を阻止するには不十分で、生産設備稼働率の低下を防ぐにも不十分な、緩慢にして、長期化する経済の伸び悩みなのだ。
日本が現在立ち至っている事態を反面教師にして、われわれが今やるべきことはなになのか?
連邦政府のエコノミストたちが、出した結論は二つあった。
第一は、日本の政策当局者が、より攻撃的でデフレにたちむかっていたとしたら、日本のデフレは防げたであろうということである。
しかし、現実は、デフレ克服には、あまりに遅すぎる対応であった。
第二は、1990年代の前半に、日本の政策当局者やエコノミストたちの予測にもとづいて打ち出した、比較的慎重な政策が意味を成したという意味では、、日本は愚かではなかったといえる。
しかし、肝心の、その予測が間違っていた。
そして、その予測がもしかして、間違っているかもしれないという場合を想定しての、担保となりうる政策措置をとらないでしまった。
連邦政府は、今こそ、この日本のとった誤りを、深く胸に刻むべきときである。
特に、それは金利政策に付いてである。
なるほど、早めに金利引下げの措置を取ることは、当座の景気刺激策にはなるだろう。
しかし、それが、1.25パーセントのラインを切ったとき、連邦政府は、もはや、それ以上の金利引下げの余地を、そこで失うことになる。
そして、経済は、そこから弱含みのまま推移していくのである。
それでも、連邦政府は、なお、「インフレターゲットの声明」など、苦肉の策を用意するかも知れない。
しかし、その時点で、内外に助けを呼ぶ事態に入ってしまっているのである。しかし、
あぁ、助けは来ない。
欧州中央銀行は、これまで、金利引下げに、意欲的でなかった。
それは、欧州が体質的にもつ、経済的、制度的、心理的な受動性に起因するものであるが、この中央銀行の不動性は、ドイツが日本の歩んだデフレへの階段をなぜ上り始めているかに付いての理由でもある。
結論的にいえば、日本が陥っているデフレの泥沼に世界が陥るという様は、かなり恐ろしい絵をみるおもいである。
連邦政府の政策当局者のそれについての危機意識は、誠に鈍い。
多くのアナリストたちは、われわれがすでに流動性の罠にとらわれているとも、思っていない。
ましてや、連邦政府には、それ以上の楽観論がある。
しかし、いく人かのアナリストたちは、日本が陥っているデフレのどろ沼は、われわれのためのものでもあり、われわれも同様にとらわれる可能性のある罠であるということに付いての危機意識を抱いている。
だから、たとえ今は、デフレでないにしても、それにとらわれたら、逆転するには、かなり困難な事態になるということだ。
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