2009年01月09日
「コモンズの悲劇」(Tragedy of the commons )とは、羊を連れ込んで、自由に羊たちが草が食める牧場を作ったところ、あまりに過剰な羊を連れた人が牧場に入り込んだために、せっかくの自由に食める草がたちまち、枯渇してしまった、というような事例だ。
つまり、共有の利益が得られるためには、そこに、暗黙のルールがないと、共有のメリットは、たちまち失われてしまう、という教訓だ。
もちろん、行政に先駆けて、今回、日比谷公園を「年越し派遣村」にして、切り捨てられた声なき声の派遣社員の声を政治行政につなげたNPO法人の実行力は、すばらしいと思うし、尊敬する。
問題は、この問題を、点的な問題と捉えてしまった行政の対応なのだろう。
すなわち、この派遣村の報道が大きくなるにつれ、行政は、この派遣村に集まった人への対応のみ、集中・先行したようだ。
舛添要一厚生労働相は1月9日の衆院予算委員会で、仕事と住まいを失い東京都内の4カ所に宿泊している「年越し派遣村」の失業者のうち266人から生活保護の申請があったことを明らかにし、「(施設の使用期限である12日までに)ほぼ全員に手当ができる」との見解を示したという。
異例の早さである。
また、厚生労働省は1月7日、仕事と住まいを失い東京都内4カ所の廃校などに宿泊している「年越し派遣村」の失業者らに対し、東京都社会福祉協議会を通じて最大5万円を緊急融資する方針を決めたという。
これも、異例の早さである。
では、ちょっと見方を変えて、この日比谷公園に集まらなかった派遣切りにあった人や、その他、多くの失業者への政治・行政の対応は、同じものとなるのだろうか?
大いに、疑問である。
その他、多くの派遣切りにあった人や、その他、多くの失業者にとっては、オープンアクセスとはなっていないので、コモンズに入ることは、できないのである。
そして、政治・行政にとっては、年越し派遣村が、一過性・限定的な存在として扱われている限り、コモンズの悲劇は、避けうるという、妙な意識が生まれていないとも限らないのである。
年越し派遣村の対象者へのインセンティブは、ローカル・ルールであるにもかかわらず、あたかも、それが、すべてであるかのような幻想を、行政も、政治家も、それを報道するジャーナリズムも、陥っているのではなかろうか。
いわば、部分最適の総和をもって、全体最適であると、錯覚している部分が、かなり、あるのではなかろか。
このことは、当事者が意図としている、いないにかかわらず、早急な行政の対応をいまだに受けられていない多くの全国の失業者たちにとっては、「アンチ・コモンズの悲劇」の到来でしかない。
市場経済の弱体化は、私的資本から公的資本への、デフォルト・リスクの移転をもたらす。
であるからこそ、公的資本の配分には、公正さを担保しうる暗黙のルールが、所得再配分をつかさどる行政側にあってしかるべきなのではないか、などと、思っている。
参考
「部分最適-Suboptimization-の総和は、必ずしも、全体最適とはならない。」
( “the whole is more than the sum of its parts” )
“Principles of Systems and Cybernetics: an evolutionary perspective”
by Francis Heylighen
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