寺田典城秋田県知事が10月24日、文部科学省が実施した全国学力テストについて、行財政改革に関する講演会で、県内市町村長らを前に、特定の学校名を挙げて、市町村別成績と地域別ランクの傾向を論評したのはいいのだが、その表現が、ちと、えげつなかったようだ。
この地元紙記事や中央紙の地方版によると、次のような表現だったようだ。
「県北、県南は一部を除きAかB。中央にもっと頑張ってもらわないといけない」
具体的に自治体名や学校名を挙げて「ここはいい。ここもものすごくいい」
「すべて言ってもいい。そのうち言いますから」
当該地元の市町村長に向かって「お宅の所はすごくいい」
国の借金について計算するくだりで「東成瀬村の中学生ならすぐにできる」「東成瀬が一番なんです」
また、校名挙げて学力テストの論評では、横手市内にある中学校の名前の略称を挙げて、成績が 「○○中はガタッと落ちる。あそこが上がれば、横手市はもっと成績がいいんだ」
「大潟村はすごくいい。羽後町もいい。秋田市はもう少し頑張った方がいい」
などといわれたようなのだ。
まあ、情報の中身を知っているもの特有の得意満面な知事の表情が見て取れるような発言なのだが。
学校名を挙げられた自治体の教育委員会幹部は「事実であれば、理解できない言動。なぜそういうことをするのか。子どもも傷つく」といったという。
秋田県は、学力テスト全国ナンバーワンで、県当局者の鼻息が荒いのは、わかるのだが、その座をキープするためかどうかわからないが、ことさら学力テストの市町村対抗を、教育関係者でもない知事があおっているとも捉らえられがちな行動に出るのは、いかがなもんであろう。
それ以前に、この学力テストで成績が上がること自体が、子供の総合的な成長にとって、どれほどのプラスになるのか、という検証もしなければならないのかもしれない。
学力テストは、いわば、子供の「学力という狭い領域での体温計」である。
体温計の示す温度は「温度が上がらなければならないもの」でもなく、「温度が下がらなければならないもの」でもないはずである。
その温度自体は事実に過ぎないのであり、これを目安にどのような価値判断をし、行動をするのかは、別の問題であるはずなのだ。
そして、その処方の当事者は、行政ではなくて、教育の現場にいるものに限られたものであるはずだ。
いわば、「シビリアン・コントロールの教育版」とでもいう考え方が必要なのだ。
(この場合、防衛の場合とは逆に、シビリアン的判断は、教育者サイドにある、ということになるのだろう。ただ、たとえば「日教組憎し」の橋下大阪府知事や宮崎の中山成彬氏などのようなスタンスだと、シビリアンは、われにあり、ということになるのだろうが。)
それは、教育に行政・政治の色がつくことを避けうる防波堤とでもいうべきディシプリンともいえよう。
行政がやりうることは、ただ、その学力テストの市町村別の成績の乖離の裏に、何か、社会的な要因が潜んでいないか、地域的・構造的な貧困要因などが作用していないか、などの社会的な診断の根拠とし、その診断にもとずいての政策的な展開を図ることのみである。
だいたい、医者の控え室で、「体温がもっと上がらないと、先生に見てもらえない」−−などと患者に対してけしかけている看護婦さんなんているはずはないだろう。
なんか、「相撲の新弟子検査で、身長が足りないという事実を踏まえて、今度は、コブを作って検査に臨み入門した(元大関・旭國)」というような話の学力版のような話が、学力テスト全国ナンバーワンの秋田でまかり通っていること自体が、この全国学力テストの虚妄性と限界性と不毛性をそのまま示しているようにも思えるのだが。
いかがでしょうか。
このことについての今年受賞のノーベル賞の諸先生方(とくに英語嫌いの益川敏英先生)のご論評は—-
文部科学省も、今度は、この学力テストをめぐる妙な学力版国体意識をなし崩しにしうるように、ノーベル賞受賞者のご意見も聞かれて、もっと、裏をかいた問題を出して、心機一転を図る必要があるんではなかろうか。
参考サイト
「学力テスト1位「秋田に学べ」は大丈夫?」
「全国学力テスト:「子供に聞いてみれば」 秋田市長、結果公表に疑問」
「秋田市長「全面公表方針」批判」