Sasayama’s Weblog


2005/02/20 Sunday

「ホロニックな常識」の時代−小倉秀夫弁護士の言われる「常識」の再解釈-

Filed under: 未分類 — 管理人 @ 10:44:17

  
2005/02/20(Sun)

null例の小倉秀夫弁護士の「まとめコメント(コメントスクラムと「常識」の押し付け)」http://blog.goo.ne.jp/hwj-ogura/d/20050219
で、小倉さんが言わんとする「常識」の意味が、まだ、理解できないでいる人が多いように見受けられたが、こういうことなんじゃないのかな、と、思う。

つまり、これまでのマスコミ主導型の「護送船団型」常識形成過程が、IT時代になり、「ホロニックな」常識形成過程に変わってきているにもかかわらず、あいも変わらず、ネット社会においても、「ウヨ」「サヨ」などの層別ツールでもって、多数派形成をしたがり、挙句の果ては、多数派形成のツールとしての「コメント・スクラム」を組みたがる。

で、この「常識」なる言葉を、釣りの「浮き」にたとえれば、これまでは、マスコミ主導型の巨大な浮きが、海面に数個浮いているだけで、その浮き沈みを見ていれば、「常識にたがう行為」はしなくてすんだものが、海面に、ホロニックな幾万もの浮きが、絶えず、ちらちら、浮き沈みしている状態になって、それらの浮きを指差して、「あれはウヨ、あれはサヨ」といっていること自体が、滑稽な事象である。ということなのだろう。

相変わらず、浮きの沈み具合によって、小さな生簀に、浮きを囲い分けることのおろかさとでもいうんだろうか。

もっとも、ホロニック化した浮き自体にも、自らで考える常識の形成力に、まだ、自信が無く、隣の浮きの上下を見て、右往左往(いや、上往下往か?)している面も、まだあるのだろう。

つまりは、「IT時代の常識形成のプロトコル不在」の中で、旧来社会の決めつけと、その層別基準にもとづくバッシングのみが生きているという、過渡期の段階なのだろう。

小倉さんのいわれる「自分の考えが「常識」に合致しているという認識によってのみその言動が主観的に正当化されている以上、やむを得ないのかも知れません。 (中略)そのコメンテーターの「常識」はその blog主の「常識」とは合致していないため、1対1ないし1対少数だと、そのコメンテーターのコメントは無視されるかはねつけられるかで終わることが多いといえます。」ということで、コメントスクラムへの誘引が強く働くということなのだろう。

個としての常識形成と、そのマニフェストの機会を、あたかも、「すでに常識の多数派は、形成済みですよ。今からマニフェストしても、あなたの常識は、異端派扱いですよ。」とのメッセージを含んだコメントスクラムという決め付けによって、抹殺することに対しては、対抗していかなくてはならないという、小倉弁護士の意見には、賛成である。

ブログ主も「唯我独尊」、コメント主も「唯我独尊」であれば、ブログ主と、コメント主との間の、「プロトコル摩擦」は起きないはずだ。

サイトhttp://www.ucl.ac.uk/sts/sm/sciencec.htmは、科学と公衆とのプロトコルの必要性を述べたサイトだ。

弁護士など、社会科学のオピニオンリーダーにとっても、科学者の公衆への伝達同様、インタープリター(解説員)的存在、または、イタコ(霊媒介者)的存在としての役割が必要な時代なのかもしれない。

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