早すぎた田園主義者「宮沢賢治」と「松田甚次郎」
田園散策のナチュラリスト「H・D・ソロー」
はるかなる先見者「ウィリアム・モリス」
郷土のエネルギー発現を目ざした「新渡戸稲造」と「柳田国男」
風土の力に光をあてた「ラッツェル」と「三沢勝衛」
みちのくの鳥のファーブル「仁部富之助」
田園の魅力を生涯追求した「天野藤男」
消えゆく田園風景を描き続けた「コンスタブル」と「大下藤次郎」
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ある篤農家のお宅におじゃましたときのことです。
本棚いっぱいの古い農書の中に『田園趣味』という本がありました。
私と天野藤男との出会いです。
天野は明治20(1887)年、静岡県の富士川の西、庵原という所で生まれました。ここは、富士を眺むには最良の地とされ、天野家は村の中央を流れる庵原川とその支流山切川に囲まれた小高い丘の上にありました。
そこからは海を隔てて三保の松原が見え、天野はまさに理想的な田園環境の中に育ちます。
旧制中学卒業後、庵原小学校の代用教員在職中に、庵原郡の青年大会に「文章暦」という、当地の季節ごとの各種行事を1枚の掛軸にしたものを出品しました。
この暦が、偶然、その大会の講師に招かれていた国府犀東(漢詩の大家、評論家でもあり、当時内務省の嘱託をしていた)の目にとまり、天野は清見寺で国府と運命的な出会いをすることになります。
田園の女性を救った「処女会」
天野は国府犀東の紹介により内務省の地方局に勤務し、師の勧めにより、田園の魅力を題材にした本を次々と出版し始めます。
その本のいずれもが、農民の愛郷、土着心を養うとともに、都会人の田園憧景心を促すために、豊かな自然に包まれた農村生活を描いたものでした。
特に当時は、田園から都会へとなびく若い女性たちが劣悪な労働条件のもとで次々と不健康な状態に陥っていましたが、天野は、これらの乙女たちを救うため「処女会」という名の婦人組織の拡大に努めました。
昼夜を分かたぬ天野の精力的な活動により、全国に「処女会」の組織は広がっていきましたが、逆に天野自身の健康は日に日に衰えていきました。
天野は生涯に十数冊の本を出版しましたが、『四季の田園』『都市より田園へ』『農村の娯楽』『田園趣味』などのタイトルからもうかがえるとおり、魅力ある農村の資産を農民自身が認識するとともに、都会の人にいかに田園の魅力が大きいかを訴えるという内容に満ちたものでした。
都会と農村との交流の必要性が叫ばれ、農業・農村のもつ社会的資源への再認識が叫ばれている現在、天野が目ざしたものが、今こそ実現し得る時期に来ているものと思うのです。
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