「宮沢賢治」と「松田甚次郎」
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「宮沢賢治」と「松田甚次郎」
早すぎた田園主義者「宮沢賢治」と「松田甚次郎」

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秋のイメージ 宮沢賢治が、4年3か月勤めた花巻農学校を依願退職したのは、大正15 (1926) 年3月31日でした。

翌4月1日の岩手日報朝刊には「新しい農村の建設に努力する、花巻農学校を辞した宮沢先生」との見出しが載り、賢治の「農村経済の勉強と耕作をし、生活、すなわち芸術の生きがい送りたい」との談話がありました。

この記事を見て、後に賢治の始めた「羅須地人協会」の活動に参加しようと決意したのが、松田甚次郎です。

松田は、当時飢饉に苦しんでいた赤石村の子供たちを慰めようと、翌年3月、友人と2人で南部煎餅を買い込んで同村を訪れ、その足で2人は花巻下根子桜にある賢治の独居、自炊の羅須地人協会に立ち寄りました。

松田らはレコードを聞かせてもらいながら、握り飯やスープをご馳走になります。

小作人になって、農村劇をやれ

その席で賢治は、「君たちはどんな心構えで百姓をやるのか」と尋ねました。

松田が「学校で学んだ術を充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になりたい」と答えると、賢治は次のようなことを言いました。


天使のイメージ 「そんなことでは私の同志ではない。

これからの世の中は、君たちを学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで優待してはくれなくなるし、また優待されるのは大馬鹿者だ。

煎じ詰めて君たちに贈る言葉はこの2つだ。

1つ 小作人たれ。

2つ、農村劇をやれ。

農民として真に生きるには、まず真の小作人になることだ。

農村劇をやれ ということは、単に農村に娯楽を与えるという小さなことではない。

農業者は天然の現象に絶大なる芸術を感得し、さらに自ら農耕に、生活行事に、芸術を実現しつつあるのだ。

農民のもつ得意芸を総合して1つの芝居をやればよい。生命をもってくるのだ。

その生命力が大事なのだ」


天使のイメージ 松田はこの言葉にすっかり感動し、郷里の山形県の鳥越(最上郡稲舟村大字鳥越)(現・新庄市)に帰って農村芝居をやろうと決意します。

8月、自作の脚本を持って賢治を尋ねたところ、賢治はそれに「水涸れ」という題をつけてくれました。

これに勢いを得た松田は、同年の夏、友人の片岡忠穂と「最上共働村塾」という名の青年農業研修塾を設立します。

賢治が、どうしてこの時期に『農民芸術大綱』を著し、羅須地人協会を設立したのかよくわかりません。

おそらくその時代の世界的な流れが、何らかのメディアをもって賢治に影響を与えたのではないでしょうか。

一部の研究者から指摘されているように、特にラスキン、モリスの影響は大きかったようです。

ラスキンが志向したユートピア農業協同体「聖ジョージ・ギルド」なるものは、きわめて羅須地人協会に近いものでした。

また、モリスが1880年代に興こした「アーツ・アンド・クラフツ運動」の精神は、賢治に大きな影響を与えたようです。

ただ、クラフトの対象が純粋な農産にとどまり、農産加工、木工品などの付加価値生産物の高揚に至らなかったのは残念ですが。

「羅須」と「地人」の意味

平和のイメージ 上記の松田との対話で、賢治が「農民たるより地人たれ」と言い、また農への実践活動をするにあたって、常に一種のコンプレックスに陥っていましたが、それは自らが小作人でなく、地主的な存在ではないかという劣等感があったからでしょう。

「羅須」と「地人」いう名前がどうやってつけられたのか、いまだ定説がないのですが、私は世間でいわれている文学的な解釈ではなくて、もっと社会性をもったものではないかと想像しています。

地理学者でもあった賢治は、当然当時のリッター、ラッツェルらヨーロッパの地理学者が唱えていた「地人相関論」を、内村鑑三や坪井九馬三らを通じて知っていたでしょう。

「地人」はわかりましたが、では、「ラス」とはなんでしょう。

私は、二つのことをかんがえています。

一つは、これをラテン語とみたばあいです。

ラテン語で「ラス(rus) 」は「田舎」という意味です。

田舎の地人も、都会の地人も環境との相互作用によって生き、生かされている、その一部として農民が存在している、という意味になります。

そうであれば、「ラスとはどういう意味ですか」と人に聞かれ、言葉を濁した賢治の気持ちもわかろうというものです。

もう一つは、これをエスペラント語とみたばあいです。

エスペラント語で「ラス(Lasu)」は、「−を、離れなさい。−をやめなさい。」という意味です。

こうなると、「地人であることをやめなさい。」という意味になります。

「自由な地人たれ。」「土地に拘束されず、芸術文化などの世界にまで勇躍せよ。」とのメッセージとも、とられます。

どちらの解釈を、皆さん、お好みでしようか。




「ヒドリ」は「肥取り」か

宮沢賢治の言葉のなぞといえば、「雨ニモマケズ」のなかの、「ヒドリノトキハ、ナミダヲナガシ」の「ヒドリ」とは何かということについても、諸説があるようです。

「日照りと書こうとして間違えたのだ」とか、「独りがなまった」とか、「日銭を稼ぐ日取りの意味だ」などの説しか、いまのところ無いようです。

では、いつから「ヒドリ」は「ヒデリ」になってしまったのでしょう。

確実にいえることは、賢治没後3年の1936(昭和11)年11月21日、高村光太郎の揮毫により、花巻市桜町の羅須地人協会設立の地に、この詩の「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ」以下の部分を「賢治詩碑」として建立したとき、「ヒドリ」は「ヒデリ」になっていました。

実は、この碑文には、1箇所の誤字と3箇所の脱字があり、昭和21年11月3日に追刻することになるのですが、それは、光太郎に揮毫の依頼をした原稿に誤りがあったためだとされています。

しかし不思議なことに、碑文の「ヒデリ」については、追刻されませんでした。

では、揮毫依頼の原稿段階で、すでに「ヒデリ」となってしまっていたのでしょうか。

それとも、光太郎の独断で、「ヒデリ」にかえられてしまったのでしょうか。

揮毫の依頼をされた故佐藤隆房さん(財団法人高村記念会会長佐藤進さんのお父さん)が、その辺の事情をご存知だったことなのでしょう。

佐藤進さんの著書「賢治の花園」(地方公論社−盛岡市、平成5年刊)には、その辺の経緯が、詳しく書かれていますが、「ヒデリ」問題については、わからずじまいでした。

いわゆる「雨ニモマケズ」手帳は、賢治の没後、発見されたのですから、光太郎の詩碑揮毫までの3年間のいずれかの時に、「ヒドリ」は「ヒデリ」になったはずです。

考えられる機会は、5つあります。

第一には、賢治の死の直後、昭和8年10月、宮沢清六によって編まれ、知人にくばられた遺稿抜粋「鏡をつるし」の中に、「雨ニモマケズ」は、はいっていたのか、入っていたならば、そのときは、「ヒドリ」のままだったのか、

第二は、昭和9年9月21日岩手日報夕刊4面「宮沢賢治追悼号」で発表の「雨ニモマケズ」では、どうだったのか。

第三には、昭和9年10月より昭和10年9月にかけ、三巻にわたり発行(昭和9年10月第3巻童話篇、昭和10年7月第1巻詩篇1、昭和10年9月第2巻詩篇2)された「宮沢賢治全集」(高村光太郎、宮沢清六、草野心平編、文圃堂発行)ではどうだったのか、

第四には、昭和11年7月、日本少国民文庫「人類の進歩につくした人々」(編纂者山本有三、新潮社発行)に収録の「雨ニモマケズ」では、どうだったか

第五には、先ほど述べた、昭和11年9月高村光太郎への揮毫依頼見本原稿ではどうだったのか、です。

このうち、第一の「鏡を吊るし」の内容は、「農詩四編、歌曲七編、「農民芸術概論」抄録を収めたもの。」のようで、後の増補改定版で「歌曲二編と童話「やまなし」を追加」したとのことです。

そこで、宮沢賢治記念館に確認したところ、ここには、「雨ニモマケズ」は、はいっていないとのことでした。

第二の岩手日報ではどうでしょう。
これも、花巻市にある宮沢賢治記念館の館長さんのご好意で、その現物を見せていただく機会がありました。

ここでは、「雨ニモマケズ」は、「遺作(最後のノートから)」として掲載され、ここで、「ヒドリ」は「ヒデリ」となっていました。

では、第三の「宮沢賢治全集」は、どうでしょう。

この文圃堂書店版というのは、当時千部程度しか刷られていなかったようで、現存しているのは、全国数箇所の図書館にしかありません。

そこで、その一つで現物を確かめたところ、「手帳類などについては、後日何らかの方法によって出版の予定である。」との覚書があるのみで、「雨ニモマケズ」は、収録されておりませんでした。

第四の日本少国民文庫「人類の進歩につくした人びと」については、なかなか現物が見当たらず苦労しましたが、ようやく、出版元のご好意で、確認することが出来ました。

それによると、ここで、「雨ニモマケズ」は、「無題」と題され、世界の偉人伝と偉人伝のあいだの間つなぎのような形で、収録されており、肝心の「ヒドリ」は、「ヒデリ」となっていました。

第四については、前記のとおりです。

こうして調べてまいりますと、「雨ニモマケズ」で、「ヒドリ」が「ヒデリ」になってしまったのは、活字では昭和9年9月21日の岩手日報が最初、本では、昭和11年7月の日本少国民文庫「人類の進歩につくした人々」が最初、ということがいえます。

したがって、岩手日報の段階で、どなたが、このように直してしまったのかは、わからずじまいですが、少なくとも、一部にある「高村光太郎さんが直してしまった。」という説は、あたっていないことになりそうです。

詩碑建立以後、たとえば、「風の又三郎」(坪田譲治解説昭和14年12月羽田書店発行)等では、「ヒデリ」になっていますし、大方の出版物では、「ヒドリ」を勝手に「ヒデリ」となおしているようです。

しかし、ちゃんと明確に賢治は「ヒドリ」とかいているですから、勝手に直してしまうことは著者に対し僭越なことだとおもいます。

まして、教科書に「ヒデリ」とかかれているのでしたら、即刻「ヒドリ」に直していただかなくてはなりません。

作家の嵐山光三郎さんは、「文人悪食」(新潮文庫/2001/09発行)のなかで、次のようなことをいわれています。

「「ヒドリ」とは何かを調べようとするのが後世の人の礼儀というものだ。勝手に「ヒデリ」ときめてしまうことは、賢治という詩人に対する崇拝と蔑視があったからではないだろうか。」

そもそも、この「雨ニモマケズ」は、5つの部分からの構成になっています。

第一は、自然の変化に負けない自分、第二は、欲や怒りや自我を自制しコントロールする自分、第三は、他人に奉仕する自分、第四は季節らしくない状況に逆らわない自分、第五は、他人からの評価に中立な自分、です。

この5つの自分に賢治はなりたいといっているのです。

「ヒドリ」は、このうちの第4の「季節らしくない状況に逆らわない自分」の中にでてくる言葉です。

しかも、その対となる言葉が、「サムサノナツハ、オロオロアルキ」であり、寒い夏の状況です。

ですから、「ヒドリノトキハ、ナミダヲナガシ」は、「暑い冬」または、「極端に暑い夏」の状況をさしているといえます。

そこで「ヒドリ」とは「肥取り」ではないかというのが、私の解釈です。

昔の農村では、冬の寒い間に稲わらに牛の糞尿などを混ぜ、それを山のように積み上げ、堆肥作りをしていました。

冬も終わりのころ、春農作業にそなえ、その稲わらを積んだ山を崩すと、ものすごい蒸気と、鼻をつく異臭が立ち込めた光景をおもいおこします。

夏の場合であっても、「炎天下の肥え取り」とも、読み取れるわけです。

また、「耕稼春秋」(土屋又三郎著)という名の昔の農書には、「正月すぎから、農家は、近隣都市の家に下肥をとりにいく。」との記述もあります。

「涙を流したのは、アンモニア臭のせい」といってしまったら、女性の賢治ファンには、あまりにロマンチックでない解釈と毛嫌いされてしまうでしょうか。

でも、農民文化とは、そのようなにおいがあってしかるべきです。

では、その他の諸説についてはどうでしょうか。

「「日照り」と書こうとして間違えたのだ」との説も有力です。

いわば、冷害と旱害を対比させようとして、字を間違えたとする説です。

ここで、「雨ニモマケズ」手帳の71ページ72ページを見てみましょう。

ここに「土偶坊ワレワレカウイウモノニナリタイ」とした、見方によれば「雨ニモマケズ後編シナリオ版」らしきメモがあります。

ここには、確かに「第5景ヒデリ」とかかれてあります。

賢治がメモしたこの「でくの坊」の芝居らしきもののストーリーは、おぼろげながら予測するに、「母親にも妻にも村の青年にも、あまり相手にされない、信仰心のあついでくの坊が、死にそうな年寄りを助け、旱害にあった村では腹をすかした子供達に声をかける。しかし、結局は村を離れ、帰依への旅にでる。」といったようなストーリーが想像できます。

一説によれば、このでくの坊のモデルは、斎藤宗次郎との説もあります。

このメモの存在は、「ヒデリ」説を容認する根拠とも、否定する根拠ともなりえます。

「土偶坊ワレワレカウイウモノニナリタイ」をシナリオ版と見れば、すでに賢治の頭の中に「ヒデリ」の文字があったとも考えられます。

一方、こんなに近くのメモの間で、「デ」と「ド」の書き間違いが発生するものだろうか、とも、考えられるからです。

それにしても、ここに「第5景ヒデリ」と、わざわざ書いてある意味が、新たななぞを呼びそうな気配です

では、「日銭を稼ぐ日取りの意味だ」との説は、どうでしょう。

ここで引っかかるのは、次に「涙を流し」としている点です。

これでは、表現があまりに、プロレタリアート的にすぎると感じるのはわたくしだけでしょうか。

このように農民の生活に密着し芸術活動をした宮沢賢治でした。

モリスの、芸術のために芸術をやるのではなく、田園と地域のため芸術をやるのだという精神は、そのまま賢治が目ざしたものにつながるでありましょう。

田園主義者としての賢治の先見性に驚きます。