「いかなる生き物であれ、死んだものよりはいい」
ソローのこの考えは、彼の死後 130年たった今でも、新鮮な教訓として現代人に迫ってきます。
ソローは1817年、アメリカ・ボストンの近くの町、コンコードに生まれました。
エマソンとの出会い
当時のアメリカはイギリス産業革命の余波を受け、物質主義と金権主義とがはびこり始めていましたが、コンコードには、そのような世の風潮を嫌った文人たちが多く住みついていました。
敬虔な牧師であり、詩人であり、哲学者でもあったエマソンも、その1人です。
1836年、エマソンは『自然論』という本を書き、一躍脚光を浴びることになります。彼は自然が物質的な公共財であると同時に、人間の創造力の源ともなると考えていました。
この思想の発端は、エマソンがパリの植物園にある標本室を訪れたときから始まります。
無数の標本を見て「標本それぞれが自然の中では野蛮とされるものもあり、美しいとされるものもある。しかし、自然物を野蛮とみるか、美しいとみるかは、所詮は人間という一生物のもつ属性によるものである」との啓示を受けたのでした。
さらにエマソンは、更地としての自然の世界を、自分の理性の及ぶ限りのもので見、その意味を正確に読み取ることから、自然への理解が始まるとしたのです。
『自然論』が出版された当時、ソローは19歳。地元のコンコード・アカデミーを出た後、1833年16歳でハーバード大学に入学しますが、病気のため休学し、父親の仕事を手伝いに郷里のコンコードに帰っていました。
復学後ソローは、ハーバード大学で「アメリカの学徒」と題するエマソンの講演を聴きました。
さらに、著書『自然論』に感動したソローは、エマソンへの傾倒をいっそう強めます。ソローはハーバード大学卒業後、直ちにコンコードに帰り、教師になろうと決意しました。
しかし、学校の方針(ムチ打ち)に抵抗したソローは、わずか2週間で教師をやめ、兄と2人で成人のための教養講座を始めました。
このアイシータムという教養講座を通じて、ソローはエマソンと親交を結び、エマソン主宰の「超絶クラブ」という、トランセンダリストの会に入会します。
五官を使って森を散策する
これを機にソローは兄と一緒に、自然に親しむ散策を始めるようになります。最初の散策は1839年8月末から2週間、コンコード川とメンコック川への散策でした。
その旅の過程で、命あるものの運命への関心が呼びさまされます。
ソローにとって散策とは、住み慣れた環境から日々離れ、常に軌道を捨てて未知の領域に踏み込むための「行」のようなものでもありました。散策の過程で、ソローは自らの五官すべてをフル動員し、野生生物のすべてを知りつくそうと試みました。
ときには、野生のリンゴやドングリ、ハックルベリー、樺の樹液などを口にしながら、そして這いつくばってアリの影を追うような散策も続けられました。
まさにエマソンの、あらゆる理性でもって自然の正確な読み取りをしようという言葉を実践したのです。
1845年28歳の時、ソローは自然の中に己れを投げ出してみたいと思い、ウォールデンの池のほとりに小屋を建て、そこに2年2か月間住むことになります。
そこでも、毎日の散策は続きました。森の中でのソローの生活は、質素そのものでした。生活時間をできる限り切り捨て、過ごす時間の大半を精神的なものにあてる、これがソローのシンプルライフ術でした。
この2年2か月間の森の生活を、のちに1冊の本にまとめましたが、現代でもこの本は、シンプルに生きる人々の精神的なバイブルとして評価されています。
自然に忠実なあまり、世俗的なことには憤懣を隠さないソローの態度は小さなコンコードの町に大きな波紋を投げかけ、1846年には人頭税を払わなかった罪で逮捕されたこともあります。
また奴隷解放運動に共鳴して、これを激励したりしました。ソローの自然に対する擁護の精神は、そのまま人権に対する擁護の精神となり得たようです。
その後1862年5月に一生の大半を過ごしたコンコードの地で、ソローは45歳の生涯を閉じました。
ソローは生涯の中で、アメリカ・インディアンの自然に関する経験と知識に常に敬意を表していました。
非文明的で野生的なものであると思われているものが、いかに自然に関してスペシャリストなのか、文明の価値観をさらに問い直すソローの考え方は、今なお現代の人々に多くの課題を提起しています。
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