田園環境図書館
ランドスケープデザインの視座

宮城俊作
(学芸出版社)(2001/6)
(2,200)

 

 

本書を手にとっていささかギクリとするのは、表紙が火葬場の絵であることだ。

もっとも、火葬場といっても、私の政策提言でもとりあげたことのある世界遺産指定のスウエーデンの森の火葬場だ。

これは、1915年国際コンペによって、アスプルンドとジガード・レウ゛ェレンツとの協働により設計された、20世紀を代表するランドスケープのひとつとされている。 

ランドスケープの定義はむずかしい。

著者の定義では、「ランドスケープとは、われわれを取り巻く環境のある状況を指しており、その状況のもとにおいて、人為的に表象されるものと、現実の環境において表象が志向する対象との間に、われわれの感覚を媒介としたコミュニケーションが成立していること。」などと定義されているが、これでは、何のことやらさっぱりわからない。

その点、ドイツにおけるランドスケープの概念は、きわめてわかりやすい。

ドイツ語では、ランドスケープを「ランドシャフト」というが、これには、原生の自然を意味する、ただのランドシャフトと、これに人為が加わったクルトゥール・ランドシャフトとがある。

たとえば田園景観というものは、人間の農業という生業の結果の景観であるから、これは、クルトゥール・ランドシャフトであるといった具合にである。
 
本書でも、このような観点から読みおこせば、その概念は、いくらかはっきりしてくるかもしれない。

著者は、ランドスケープを考える8つの視座をあげる。

第一は、ランドスケープの日本語訳に造園という言葉を当てると違和感をかんじるのは、日本の職人の才能の集積である造園と、大正時代に渡来してきたランドスケープとでは、洋魂和才とはいっても、そもそも違ったものなのではないのか、という指摘である。

第二は、ランドスケープの歴史が、近代建築の歴史と呼応して発展してきたとすれば、その空間構成を近代建築に従属したものと見るか、独立したものと見るかによって、ランドスケープの出自は規定され、その限界と可能性の中で、これからのランドスケープの方向性が考えられてくるのではないのか。

第三は、ランドスケープの構成要素となる素材について、造園とランドスケープとでは、その考え方が著しく異なり、造園がひたすら擬似的自然物の素材にこだわるのにたいし、ランドスケープは、遠近のスコープの差や時間的経過の差などによって、かなり柔軟な対応が可能なのではないのか。

第四は、時代の流れに従って、エコロジーと向き合わざるを得ないこれからのランドスケープのかんがえかたは、必然、美学的な観点から、科学的、生態学的観点に移行し、調和することを求められているのではないか。

第五は、アース・ワークに代表される、ランドスケープとランドスケープ・デザインとの融合がこれからの課題なのではないか。

第六は、一人のデザイナーの力によるランドスケープの時代は過ぎ、これからは、他の領域の専門家や地域住民などとの協働・パートナーシップの発現による「コラボレーション」の時代を迎えるのではないか。

第七は、制度の存在が風景の基幹を規定している現状では、景観を生み出しうる制度の改善とともに、制度を超える風景を生み出しうる知恵が、ランドスケープ・プランナーに求められているのではないのか。

第八は、これまでのランドスケープの生い立ちからあった「ピクチュアレスク」な風景のプレパラートから脱し、ドイツのエムシャーパークの産業遺産を利用したランドスケープ作りに見られるような、工業的なものも景観になりうる、多様な風景モデルが創出されうる時代にきているのではないのか。

以上が、本書で著者が提示した、ランドスケープの視座であるが、日本においては、これらの視座が混沌といりまじって、交通整理がつかない状態にあるのではなかろうか。

たとえば、景観材に対するものの見方である。

本書でも取り上げているが、擬石・擬木について、素材の特性を無視した、形状のみを模倣する傾向が日本には強いのではないのか。

そもそも日本の風景論そのものが、志賀重昂により体系化されたものではあるが、では、江戸時代に日本独自の風景感覚がなかったかといえば、それはうそになる。

それは、西欧のピクチャレスクとは異なった美意識にもとずくものであったはずだ。

ただ、それは、限定されたスコープのもとにおいての修景感覚によるもので、広域的な修景ネットワークといった発想という点では、とぼしいものがあったとはいえる。

また、先にあげた田園空間など、生業の必然に基づき生成されたランドスケープはあっても、意図的なランドスケープの創造は、作庭や借景などの小規模のものを除いては、なかったのではないのか。

本書でも指摘されているが、ドイツのビオトープの考えが日本に輸入されると、本来のビオトープ・ネットワークの考えが見事に吹き飛び、ひたすら、特定生き物の池作り・藪作りと化してしまうのも、その生い立ちの違いによるものなのだろう。

そのような狭い範囲での景観を和洋あれこれ寄せ集めし、今日の日本の景観空間が形成されているといったら、いいすぎであろうか。

いま必要なのは、遅まきながらではあるが、日本型ランドスケープ論の再構築である。

そして、求められるのは、これからの日本景観を形成しうる風景モデルの模索であろう。


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