ローマ教皇のミサでのスピーチ(全文)
(2019年11月25日於 後楽園東京ドーム)
(ローマ教皇のスピーチ部分だけの動画は こちら からダウンロードできます。)
(1:16:27)
今聞いた福音(マタイによる福音書6:24から6:34)は、イエスの最初の長い説教の一節です。
「山上の説教」と呼ばれているもので、私達が歩むよう招かれている道の美しさを説いています。
聖書によれば、山は、神がご自身を明かされ、ご自身を知らしめる場所です。
神は、モーセに「私の元へ登りなさい」と仰せになりました。
その山頂には、主意主義によっても「出世主義」によつても、到達できません。
分かれ道において、師なるかたに、注意深く忍耐を持って、丁寧に聞くことによってのみ、到達できるのです。
山頂は平原となり、私達を囲むすべてのものへの常に新しい眺望、御父のいつくしみを中心とした眺望を与えてくれます。
イエスにおいて、人間とはなにかを明らかにする山頂と、どんな人間的な計算をも、凌駕する完成に至る道を見出します。
(1:18:32)
しかし、私たちは、この道において、子としての自由が窒息し、弱まるときがあることを知っています。
それは、不安と競争心という悪循環に陥るとき、あるいは、私達の選択を量り認めるため、また、自分は何者か、どんな価値があるかを決めるための唯一の基準として、自分の関心や最大限の力を生産性と消費への息詰まる熱狂的な追求に注ぐときです。
そのような判断基準は、大切なことに対して、徐々に私達を無関心、無感覚にし、心を表面的で儚い事柄へと向かうよう押しやるのです。
すべてを作り出し、征服し、コントロールできると信じる熱望が、心をどれほど抑圧し、縛り付けることでしょう。
日本は経済的には高度に発展した社会ですが、今朝の若者たちとの集いの中で気付かされたことがあります。
それは、社会的に孤立している人が決して少なくなく、いのちの意味がわからず、自分の存在の意味を見いだせず、社会からはみだしていると感じていることです。
家庭、学校、共同体は、一人ひとりが支えを見出し、また、他者を支える場であるべきなのに、利益と効率を追求する過剰な競争意識によって、ますます、傷ついています。
多くの人が当惑し、不安を感じています。
過剰な要求や、平和と安定を奪う数々の不安によって打ちのめされているのです。
(1:20:38)
力づける香油のごとく、主の言葉が鳴り響きます。
くよくよせず、信頼しなさい、と。
主は、三度にわたって力強く仰せになります。
自分のいのちのことで思い悩むな、明日のことまで思い悩むな。
これは周りで起きていることに無関心であれと言っているのでも、日々の努めや日々の責任に対して、無責任であれと言っているのでもありません。
逆に、より広い意味のある展望に心を開き、そこに自分にとって最も大切なことを見つけ、主と同じ方向に目を向けるための余地を作るように、という励ましなのです。
(1:21:30)
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、皆加えて与えられる。」
主は、食料や衣服といつた必需品が重要ではないとおっしゃっているのではありません。
むしろ、私達の日々の選択について、振り返るよう招いておられるのです。
なんとしても、しかも、命をかけてまで、成功を追求したいという思いに心が囚われ、孤立することがないように、です。
世俗の姿勢はこの世での己の利益や利潤のみを追い求め、利己主義は個人の幸せを熱望しますが、実際は、巧妙に私達を不幸な奴隷にしてしまいます。
その上、真に調和のある人間的な社会の発展を阻むのです。
孤立し、閉ざされ、息ができずにいる私に抗しうるものは、分かち合い、祝い合い、交わる私達、これしかありません。
主のこの招きは、私たちに次のことを思い出させます。
「必要なのは、”私達の現実は与えられたものであり、この自由さえも恵みとして受け取ったものだ”ということを、歓喜のうちに認めることです。
それは、今日の、自分のものは自力で獲得する、とか、自らの発意と自由意志の結果だと思い込む世界では難しいことです。
(1:23:07)
それ故、第一朗読において、聖書は私達に思い起こさせます。
この世界は、いのちと美に満ちており、何よりも、私たちに先立って存在される創造主からの素晴らしい贈り物であることを。
「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
美と善は、分かち合うため、また他者に与えるために与えられました。
私達は、主人でも所有者でもなく、創造的な夢にあずかる者なのです。
「私達が自分達自身のいのちを真に気遣い、自然との関わりをも、真に気遣うことは、友愛、正義、他者への誠実と、不可分の関係にある」のです。
この現実を前に、キリスト者の共同体である私たちは、すべてのいのちを守り、智慧と勇気をもって、無償、思いやり、寛大さ、素直な傾聴、それらに特徴づけられた態度をあかしするよう招かれています。
それは、実際に目前にあるいのちを抱擁し、受け入れる態度です。
「そこにある脆さ、さもしさをそっくりそのまま、そして、少なからず見られる矛盾や”くだらなさ”をも、全てそのまま」引き受けるのです。
私たちは、この教えを推し進める共同体となるよう、招かれています。
(1:24:49)
つまり、「完全でもなく、純粋でも洗練されてもいなくても、愛をかけるに値しないと思ったとしても、まるごとすべてを受け入れるのです。
障がいを持つ人や弱い人は、愛するに値しないのですか?
よそから来た人、間違いを犯した人、病気の人、牢にいる人は、愛するに値しないのですか?
イエスは、重い皮膚病の人、目の見えない人、体の不自由な人を抱きしめました。
ファリサイ派の人や罪人を、その腕で包んでくださいました。
十字架にかけられた盗人すらも、腕に抱き、ご自分を十字架刑に処した人々さえも、赦されたのです。」(同)
いのちの福音を告げるようにと、私たちは求められ、駆り立てられています。
それは、共同体として、傷ついた人を癒やし、和解と赦しの道を常に示す、野戦病院となることです。
キリスト者にとって、人や状況について、判断する際に用いうる唯一の基準は、神がご自分のすべての子どもたちに示しておられる、”慈しみ”という基準です。
主に結ばれ、善意ある全ての人と、また、異なる宗教を信じる人々と、絶えざる協力と対話を重ねるならば、私達は、すべてのいのちをより一層守り世話する、社会の預言的パン種となれるでしょう。
(1:26:35)
終わり