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紫陽花とカタツムリのイメージ行政主導の環境価値の評価でよいのか


ある公共プロジェクトをめぐって、環境NGOと政治家、行政側が対話した席のことである。

「私たちが長年守ろうとしているこの景観を、行政の皆様方は一体いくらに評価して下さるんですか?」

と、女性の環境NGOの一人が、行政側を問いただす。

行政側は黙ったままである。


市場価値のない景観などへの価値づけ



市場価値のない環境なり景観を、なんらかの指標で価値づけようとする試みは、今に始まったことではない。

1950年代の後半から1960年代の前半にかけて、公害問題が深刻になるにつれ、私企業がもたらす社会的費用なり外部不経済を、どう内部化するかという視点で、議論は始まった。

そこで、それらのマイナスの効果をも取り込んで、なにを投資基準にして、公共投資の決定をすれば、より健全で、ダイナミックな開発効果を得られるのか、そのためには、社会資本先行型の不均衡発展(ビッグ・プッシュ)がよいのか、それとも社会資本と民間資本とが同一テンポで形成される、均衡発展がよいのか、というような議論が交わされた。

当時、数多の諸説が出された投資基準のなかには、例えば、チェネリー(H.B.Chenery)の投資基準のように、外部不経済なり環境の価値を、機会費用(注1)や、潜在価格(注2)といった概念で取り入れ、資本や所得を社会的な見地から評価した「社会的限界生産力」(SMP)を、投資基準にしたものもあった。

当時の先駆的な取り組みは、アメリカの水資源開発に関して、それに関わる投資費用総額と、それによってもたらされる開発効果の総額を比較する「費用対効果分析」であった。その後、コンピューターと統計技術の著しい進展によって、この手法は、わが国においても、定着していった。

その間、環境価値をはかる、色々な手法があみだされた。その地まで行く旅行費用で、その地の環境価値を金銭換算する「トラベルコスト法」や、その土地の地代をもとに、その土地の環境価値を金銭換算する「ヘドニック法」などである。


定着する仮想評価法(CVM法)


近年、CVM(仮想評価法)という手法が有力となり、その数値を「費用対効果分析」における環境価値として位置づけようとする試みがさかんに行われている。

このCVMという手法は、「人々が、その景観なり、環境保全のために金銭的にいくら支払いうるのか」あるいは「人々が、悪い環境のもとに住み続けるには、いくらの補償をすればよいか」などということを、アンケートの形(ex.アンケートの形式例―富山大学が行った「呉羽丘陵健康とゆとりの森整備事業に関する富山市民の意識調査」)で問い、その統計的処理によって、景観なり環境の仮想の金銭的価値を算出しようとするものである。

この手法の特徴は、アンケートを受けた人が、遠くはなれていて、「利用することがない、または、できない景観なり、生態系の価値」(非利用価値)をも、測定できることにある。

この手法がアメリカにおいて定着する過程には、アメリカ商務省国家海洋大気管理局(NOAA)が関わった2つの自然資源損害評価があった。

一つは、アラスカ沖で、エクソン社のタンカーが座礁し、広範囲にわたって、重油による海洋環境汚染を引き起こした「バルディーズ号事件」に関わる損害評価であり、もう一つは、南カリフォルニア沿岸の産業廃棄物におけるDDTとPCBによる汚染に関わる損害評価(モントローズ訴訟)である。

このいずれのケースにおいても、NOAAはCVMの手法による損害評価を行った。

NOAAは、これらのCVMの手法による損害評価の経験をもとにして、環境破壊の損害賠償の裁判にCVMを用いる時に注意すべき項目を、1993年「NOAAガイドライン」として公表し、1994年1月「自然資源損害評価のルール」を提示した。


動き出した事業官庁のマニュアルづくり


ひるがえって、日本をみれば1997年6月、政府は、「財政構造改革の推進について」の閣議決定を行い、これに基づき、各省は、公共事業について、事業効果の明確化や、新規採択事業や採択後の事業進展がはかばかしくない事業についての再評価を行う方針を打ち出した。

この方針をもとに、建設省、運輸省、農林水産省などの事業官庁では、現在、事業類型ごとのマニュアル作りに乗り出している。

これらのマニュアルのうちには、例えば運輸省の海岸事業についてのマニュアルのごとく、海岸の景観については、CVMの手法を使うことを明記しているものもある。

建設省においても、事業別マニュアルのうち、景観・環境価値に関する点については、CVMの手法を使うこととしている。特に海岸利用、海岸環境保全、砂浜の保全、災害による精神的被害、公共用水域の水質保全などにこの適用が検討されている。

(参考「『社会資本整備に係る費用対効果分析に関する統一的運用指針』の策定について」のうち第2章第5節CVM)



また、農林水産省では、はやくから農業総合研究所で、日本の農村景観の価値を数値化するため、CVMの手法を駆使しているほか、平成10年度より、農業生産基盤整備事業の事業効果をフォローアップする検討調査のなかで、公益的効果を計量化するために、CVM手法適用の検討を始めている。

環境庁は、平成9年度の環境白書において、CVM手法の紹介はしているものの、事業官庁が事業再評価のための「費用対効果分析」において、景観や環境評価の数値化にCVM手法を使うことについては、特別の見解は表明していない。

社会経済的なプロジェクト評価のための環境価値の数値化と、技術的な環境影響評価(アセス)とは、当面連動させないという立場なのであろう。


プレーヤーが自らジャッジする危惧



蝶のイメージ しかし、中央官庁に限らず、県・市町村段階でも、景観や環境価値の数値化に、CVM手法を使うことは、もはや、あたりまえのような状況になりつつある。

私は、景観や環境価値、生態系価値を数値化しうる、他の有力な手法がない以上、CVM手法の意義や正当性を、否定するものではない。

しかし、CVM手法には、少なからぬ限界が指摘されており、数値化の妥当性立証のためには、ある程度の検証期間が必要とされる中で、その手法の成熟化をまたずして、公共事業を実施する主体が、いち早く特定の手法をマニュアルの中に取りいれることには、プレーヤーが自らジャッジするような、ある種の危惧を覚える。


市民参加がCVM導入の前提条件



CVM手法を公式のものとして認知するには、いくつかの前提条件が必要である。

第1は、栗山浩一さんが、いわれているように、市民参加による、行政との合意形成の機会が、日常化していない状況での、CVM手法の乱用は、危険であるということである。 一方通行での、一度限りのアンケートによる、環境の数値化は、その後の双方向での、度重なる住民と行政とのフィードバックが保証されて、始めて、真実の値に近づきうるからである。

第2は、人々に環境負担の金銭的限度を聞く場合、人々がそれを既存の税の再配分によって負担するのか、それとも特別新税や新しい基金等への拠出可能額を聞くのか、ケースが別れる場合があるが、いずれの場合も、調査対象地に、公的資金がどれくらい、どのような形でこれまで投入されているのかを、アンケート回答者が承知していなければ、人々に二重の負担を前提に質問をすることになる。

ましてや、たとえ仮想といえども、とうてい実現不可能な負担徴収システム構築を人々に提示しても、そのシステム構築の可能性自体を、聞かれる側が否定してまえば、この設問自体が無意味なことになってしまう。


どうなる?環境影響評価(アセス)との関係


第3は、CVM手法による環境価値評価と、環境影響評価(アセス)との関係である。

そもそも、CVM手法がアンケートによっている以上、現時点における民意は反映できても、時代の価値を先取りしうる先行指標には、多くの場合、残念ながらなり得ない。

マングローブをみて、ただ美しい景観として見る人もいれば、その中にうごめく生態系を洞察・察知できる人もいる。

しかし、時間の経過と啓蒙によって、前者の人も、後者の人の認識の段階へレベル・アップしてくる可能性が強いのである。

これら、認識レベルの違いを補正するためには、一般住民と特定識者との二段階でアンケートをする手法をとる必要がある。

いずれにしても時間的な価値選好のズレを、いかに補償するかが、問題となってくる。

そのためには、環境影響評価(アセス)を優位の位置において、啓蒙的に民意を、繰り返し問い直しうるサブ・システムが、どこかに用意されていなければいけないのではなかろうか。

そして、将来的にはプロジェクト評価と、環境影響評価(アセス)とを統合した、統合的環境経済評価システムというものを確立し、それをミチゲーションや代償措置の可能性を模索するための手段としなければならないのではなかろうか。


見られる景観と見る景観の総和が大切



第4は、景観には、こちらから見る景観もあれば、あちらから見られている景観もあり、その総和が、ある広がりの中での、景観の価値といえるが、公共プロジェクトにおける景観とは、ともすれば、その総和をカウントするという考え方に立っていない。

公共構築物自体が、環境資産になることで、その総和の環境価値を高めるという考え方が、この際必要である。

すなわち、公共構築物そのものも、CVM手法評価の対象となり得るということである。

ここで、ある景観を思いうかべてみよう。

風光明媚なある岬の突端から岬の付け根の浜を見た場合、そこに無骨な公共構築物がたてば、明らかに、岬の総和としての環境価値は減じる。

しかし、もし、その公共構築物の外観が、その地の環境に調和したデザインであったとしたら、また、もし、その構築物の中に、岬の自然生態系を子供達が学習できるスポットがあるとしたら、さらに、その中に雨の日でも大きなガラス越しに、コーヒーを飲みながら岬の突端の眺望をゆっくり楽しめる場があり、そのことで、狭い岬に大勢の観光客が集中しなくなり、結果として岬の貴重な生態系の破壊を免れることができるとしたら、岬全体の総和としての環境価値は、いくらか下げどまることができるのかもしれない。

このように、CVM手法の適用にあたっては、どの程度の範囲の空間での環境価値なのかを、限定し、条件付きで、その数値を評価することが必要である。


何よりも重要な環境マインドの向上



菖蒲のイメージ 以上、先行する行政サイドの環境価値の数値化についての、私の見解を述べた。

繰り返すが、私は、CVM手法による環境価値の数値化の意義を否定するものではない。

これまでにも、藤前干潟や、三番瀬、吉野川、四万十川、釧路湿原、瀬戸内海などの環境価値を数値化し、その価値を全国の人々に知らしめたこともあり、また、失われていく農業農村の価値を数値化し、その重要性を都会の人に強調した例もある。

しかし、私が、それ以上に大切だと思うのは、公共事業計画者の環境マインドの向上である。

優れた環境計画をなしうる技術者の存在こそ、CVM手法適用の大前提である。

名医がいて、はじめて、優れた処方箋が生きるのである。

そして、患者の親たる住民が納得しうる、環境価値について、双方向の住民参加の場がなければ(医療になぞらえれば、インフォームド・コンセントの場がなければ)、誤診にもとづくあらぬ大手術を、景観や生態系が受けてしまうことになるのである。

('99年 7月14日更新)


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