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朝顔のイメージ あえて改革至上主義に訣別し、
新たなパラダイムを構築する時







近時、市場主義について、各界での論議が活発になってきた。

その論調は、おおよそ次の諸点についてのものである。


非利潤原理重視の経済政策を


  1. 市場主義の、よって立つ経済理論は、市場機能の活用と生産性の向上を旨とした新古典派経済学であるが、これに基づく諸政策は、有効に機能しておらず、歯止めなき、そして、垣根なきグローバル化を進行させている。
    ここで、A・K・センが主張しているような企業倫理に基づく選択行動なり、非利潤原理を重視した経済理論に基づく諸政策を展開すべきでないか。

  2. 「大きな政府に代わり小さな政府を」との議論は、相対的なものを対峙させているだけである。公的な介入によって、市場システムを機能させようとしている限り、小さな政府のもとにおける市場システムとはいえないのではないか。
    また、「一旦国家の介入により、小さな政府が出来れば、あとは、市場システムが高原状態に入り、うまく機能する」というのは、幻想ではないか。
    このことにより、かえって大きな政府が実現してしまうのではないか。


企業が守るべきものはなになのか

  1. 市場メカニズムが機能する前提として、情報開示が必要であるが、その前提が未成熟のまま、性急に市場メカニズムの導入をはかっているのではないか。
    また、政府の市場への介入は、中長期的に市場メカニズムにプラスになる形で行われなければならないのに、実態はそうなっていないのではないか。

  2. 市場主義を追求することによって、企業にとって守るべきステークホルダー(企業活動と利害関係のあるもの)は、何なのか。
    (株主なのか? 顧客取引先なのか? 地域社会なのか? 環境なのか?)
    そのためのガバナンス(統治)の仕組みをどうしたらよいのか。
    また、「国際社会で一定のシステムを維持・運営するため、政府が関与するガバナンス」(グローバル・ガバナンス)の対象はなにであり、どのようなルール形成が、もとめられているのか。


市場主義による画一化

  1. グローバル・スタンダードは、地域なり固有の歴史的文化など多様性を重んじるものを守り得ず、世界は、市場主義によって、画一化され多様性を失うことになり、結果として、地域間の公平性を確保し得ないのではないか。
    また、市場主義のもとにおいては、今は価値がない様に見えても、保存することによって生れる将来のオプション価値(将来の選択肢を確保することにより生じる非利用価値)をも、守り得ない。
    さらに、グローバルスタンダードを所与のものとして追随してばかりいては、日本初の世界標準発信をすることができなくなるのではないか。

  2. アジアの経済危機は、地域特性を考慮しないIMFの一律的な指導のもとで、各国が構造調整プログラムというコンディショナリィ(融資条件)に過度に順応したがために、市場システムが地域社会システムから遊離し、起こった。このことは、国際機関のあり方を問い直すものではなかったのか。
    デ・ジュール(公的)な国際標準を発する国際機関そのものが、地域の実態に適合しなくなっているとすれば、地域の実情に通じた国際機関に任せることも必要なのではないか。
    また、国際機関が担当すべき分野と、民間に任せうる分野とを分けていないことも、先進国のモラルハザードを招いているのではないか。


日本型経営を、あえてみなおす

  1. 自己責任論は、セーフティーネットの整備と並行して、追求されるべきではないのか。
    自己責任論に固執し過ぎ、公的資金投入等の措置が、事後的対応のみに終わり、事前的措置なり監視管理体制の強化による資金投入量総和の最少化につながらなかったのではないか。

  2. 急激な経済改革の緩衝措置として、長期安定雇用や企業内福祉など、日本やドイツのライン型経済経営のもつ「バッファー効果(緩衝機構)の利点」を再評価する必要があるのではないか。
    また、これほどの市場の失敗があったにもかかわらず、その原因を規制緩和など経済改革の不十分さにのみ求めるのではなく、「スピードの経済による衝撃」を緩慢化しうるバッファーの不在も一因であることを認め、その整備を政策課題とするべきではないのか。


対抗力なき寡占化の進行
  1. 本格的な規制緩和時代を迎えたにもかかわらず、価格カルテルなど違法行為の差し止めや損害賠償などに関わる諸制度の不備があり、公正取引委員会は、市場の番人としての機能を果たしていないのではないか。
    また、これまでの規制緩和やビックバンは、ベンチャー企業の輩出など本来の目的である競争性を生むことなく、結果として、市場内での対抗力がないもとで、企業防衛のための市場の寡占化のみを生み出しているのではないか。

  2. 恒常的な余剰雇用を掃き出せないままのリストラは、形だけのものとなってしまい、結果的には、リストラ後も、企業そのものの存続を危うくしているのではないか。
    また、人材育成を伴わない市場主義は、結果的には、市場性のあるスキルを持つ者と持たない者との、シェーレ状の所得格差を生み出すことになるのではないか。


以上が、市場主義に疑義をとなえる近時の論調のおおよそである。


第三の道への模索
政治の世界においては、表だって改革至上主義に対して、疑義を唱える動きが一般化しているわけではない。

しかし、それらしき動きは、ほの見える。

ドイツでは、昨年9月の連邦議会選挙において、シュレーダーを首相候補とする社会民主党(SPD)が勝利したが、この選挙における対立のキーワードは「改革の渋滞」(リフォルム・シュタゥ=Reformstau)であった。

選挙戦では、「改革の渋滞をまねいたのは、SPDである」との攻撃が続いたのだが、勝利を手にしたのは、非難されたSPDであった。これまで連邦参議院で多数を占め、税制改革関連法案を廃案にしてきたSPDが、はからずも国民の信任を得た背景に、改革に対する、国民の、どのような屈折した思いがあったのかを、もう少し分析してみる必要があるのではないか。

ドイツも、日本も、同じライン型経営の企業風土である。

日本では、どうか。

日本の政党のほとんどは、この6年間、改革を標榜した政権に、入れ替わり立ち代わり参画している。

したがって、こと改革至上主義に対しては、他国の政党以上に、疑義を挟み得ぬ「囚人のジレンマ」に、各政党、陥っているといえる。
特に、政治の世界では、非改革者としてのレッテルをはられることを、極度に恐れる。

しかし、政党が「自由だ、民主だ、改革だ」と、なわばりの境界線を白墨でなぞりなおしているうちに、日本の経済社会は、グローバル化によって、 デ・ファクト(事実上)に決められた「それしか、選択の余地なく追い込まれたなかでの自由な市場」と、「フリーライダー可能のメリットの故に、民主的に認知された規格」のなかで、生き抜くことを迫られている。

ここで、これまでの6年間の「改革へのたゆみなき歩み」から、一端、「改革のその先にあるもの」に視線を向け、新たなパラダイムの構築のもとで、「第三の道」へ、歩みの方向を変えていく必要があるのではないか。


グローバリズムの光と影
市場主義・グローバリズムには、光りの部分も影の部分もある。

誰もが、グローバリズムの欠点を感じながらも、しかし、デ・ファクト(事実上)なグローバル・スタンダードを否定することが出来ない。

問題は、市場主義・グローバリズムの光も影も包摂しうるパラダイムの不在である。

今年2月に、経済企画庁経済審議会にグローバリゼーション部会が設けられ、8回にわたって審議が続けられ、この程、報告書がまとまった。
全体の構成は、誠にバランスのとれたものであるが、終わりに近づくにつれ、何か、しり切れトンボの感じを、失礼ながら抱くのは、私だけではあるまい。 どうして、こうなったのか。

各回の議事録の詳細が、インターネットで公開されているので、見ていただくと分かるが、議論の過程で、グローバリゼーションの光と影のどちらの部分を強調するか、事務局側と擦りあわせた経緯がある。

結果、当初、第三にあった「21世紀初頭におけるリスク要因とその対応」と題する一章は、第六回の会合で、「前後のつながりが悪く、とくに情報通信については、光の部分が消されがち」などの意見が出て、終章に回った。

このこと一つとってみても、グローバリゼーションのもつ光と影の部分を包摂しうる、新たなパラダイムの構築が今必要であるといえる。

では、どのようなパラダイムを、構築したらよいのだろうか。


モノと情報・金融--ことなる市場特性
私自身、市場主義に対し、いくつかの疑義を抱いている。
すなわち、市場の決定過程におけるモノと情報・金融との特性の「かい離」についてである。いわゆる旧来の収穫逓減型産業と、新しい収穫逓増型産業との特性の違いである。
それは、ちょうど、1960年代に、公共投資の効果について抱いた問題点によく似ている。

当時、公共投資の投資基準が、一般の財への投資と異なるのは、次の四つの特性によるものだとされた。

第一は、規模の経済がいちじるしく、ビック・プッシュ(1度に大規模の社会資本整備をはかること)によって、新たな段階への経済発展を達成できること、第二は外部経済・不経済の市場への内部化が困難であること。
第三は、全体が完成しなければ、投資効果は発現しないという、投資規模の不可分性に問題があること。
第四は、投資効果発現までに懐妊期間があるので、どの程度の時間帯で投資効果を見るかという、時間選好の差に問題があることであった。

これを、今の、いわゆる旧来のモノと情報・金融との対比になぞらえてみると、同じような問題点を有していることが分かる。

すなわち、第一は、情報・金融の規模の経済による効果は、瞬時にして達せられるが、旧来のモノは、多少、物流・決済のスピードが速くなったとはいえ、投資決定から規模の利益享受までには、どうしても短縮不可能な期間のズレがあることである。

こうして、旧来のモノ生産拡大により規模の経済達成を試みたとしても、投資規模の不可分性の故に、大規模化は、投資の時間選好の幅と回数を狭めることになり、結果としては、規模の経済を達成し得ないというトートロジーに陥ることになる。

第二は、金融は、微少単位での取り引き決済のもとに、一日の時間帯のなかで、絶え間ない均衡と不均衡を繰り返している。擬似的(quasi)な均衡状態にあるといってよい。
それに対し、旧来のモノは、1ロットの取り引き規模はそのままに、先物取り引きのあるものを除いては、せいぜい、1日一回の均衡を達成するのみである。

つまり、時間選好の幅にしても回数にしても、取り引きロットを細分化しえぬ不可分性の面でも、商品の特性上、限られているのだ。

第三は、情報・金融それ自体は、外部経済・不経済とは無縁の存在であるが、旧来のモノは、常に、「外部不経済を内部化し社会的責任を取れ」という脅迫に晒されている。

以上のことだけをみても、あらゆる財が、グローバル化による利益の享受を得られるための、市場の再設計がなされなければ、例えば、生産財の特化がなされている発展途上国などに恒常的ハンディをもたらすなどの、色々な面での不利益を生じることになる。

では、市場の再設計のために、どのようなスキームをもって、臨むべきなのか。


三つの方向・三つの主体
私は、次のようなスキームを描いている。(図参照)

参照図

まづ、経済システムの完結によって、向かうべき三つの方向があると考える。

第一は、グローバル化による経済社会、第二は、地球環境主義にもとづいた持続的発展可能な経済社会、第三は、ニッチ化(すみわけ化)によって実現する多様で柔軟な経済社会である。

その三つの方向に向かい、次の三つの主体によって、それぞれの機能が実現していく。

経済を支える主体としては(1)市場(2)政府(3)公民・NPOがあり、その各々は、(1)市場化(2)公益化(3)共生化のために機能する。

さらに、この、それぞれの主体の間には、中間体が存在する。

すなわち、(1)「市場と政府」との間には、「市場の公益化と政府部門の市場化」があり、(2)「市場と公民・NPO」の間には、「市場のグリーン化・エコ化・共生化と共生の市場化」があり、(3)「政府と公民・NPO」の間には、「公共事業など政府部門の共生化と公民・NPOの政策決定参加」がある。

さらに、政府部門より、三つの方向ならびに三つの主体に対し、サブ・システムが機能する。そのサブ・システムの目的は、経済システムのアクセレート・補完、制御、リスク管理、グローバル・ガバナンスのための国際的ルール化、セーフティー・ネットの構築である。


ニッチ化で多様性の確保を

このスキームのもとに、いくつかのことが見えてくる。

第一に、向かうべき三つの方向のうち、グローバル化と持続的発展は、いずれも、経済システムに対し、デ・ファクト(事実上)またはデ・ジュール(公的)な標準化を課すが、ニッチ化(すみわけ化)は、その地域なり地方に応じた、マイナーな「ニッチ・スタンダード」ともいうべきものの存在を許す。

これによって、地方・地域特有の文化・産業の芽を残し得ることになるが、一方、「ニッチ・スタンダード」の地域・地方からの世界への発信によって、これが「グローバル・ニッチ・スタンダード」に大化けする可能性もある。

これによって、「ローカル・マーケット」が、「グローバル・マーケット」に、直結することも可能となる。

このように、ニッチ化への方向づけによって、ともすればグローバル化がマイナーな社会経済要素(発展途上国、少数民族、ジェンダー(男女の性差)、特有の言語・文化、多様性など)を駆逐するというマイナス面を補償することが出来る。

また、持続的発展とニッチ化の方向との統合によって、例えば、「ローカル・アジェンダ21」のもとに、世界の地方同士が環境ビジネスの市場を形成するために結びつくということも、経済システムの大きな目的となり得る。

さらに、ニッチ・スタンダードの確立は、アジア地域などの地域化や、国内における府県連合、地方圏連合にむけての大きな推進力となりうる。

そして、ニッチ・スタンダードが、EU通貨統合にみられるような、グローバル・スタンダードに対する拮抗力として、発展する可能性も秘めている。


小さくとも力強い政府が必要

第二は、政府部門によるサブ・システムの機能強化は、いわゆる「大きな政府か、小さな政府か」との、聞き飽きた対立軸に、新たな第三の軸を用意することになる。

グローバル化の要請は、単なる標準化への国際圧力となって現れるばかりではない。

国際条約の締結国会議で採択される決議なども、暗黙の国際的強制力たりうる。

また、環境・人口・水資源・原子力などのグローバル・ガバナンスの対象となる領域の拡大によって、そのルール化のために、政府部門のいっそうの活躍が必要となる。

このように、グローバル化をはじめとした三つの方向へ向け、経済システムをコントロールしていくためには、量的にはともかく、質的には、相当な政府部門の拡充が求められる。

市場化への推進力が大きくなればなるほど、それをコントロールする政府部門の力は、強くなっていかなければならない。

しかし、同時に、そのコントロールの過程において、国際的ルール化などによって、「市場の暴走を市場自ら制御しうる機構」をビルトインしていくことが必要となる。

持続的発展への制御についても、外部不経済の内部化を、税のグリーン化、課徴金などの形で、常にビルトインしていくことが必要である。

単純な数値化目標による小さな政府論でなく、「小さくとも力強い政府」の存在が、今こそ必要なのである。


市場で自己実現を目指す

第三は、今日的な市場構成誘因には、従来の貨幣取得による利益実現と同時に、利他主義で非貨幣的誘因に基づく自己実現欲求を市場経済で果たそうとする動きが、急である。

市場は、その欲求にも応え得るものでなくてはならない。

いわゆる「コミュニティ・ビジネス」と呼ばれるものは、利益の要素を二の次にし、市場活動を通じて、自らの社会目的や自己実現を計ろうとするものである。

これらの市場への参入によって、政府部門は、自らの公益目的を「コミュニティ・ビジネス」に託すことにより、結果として小さな政府を実現し得ることになる。

更に「コミュニティ・ビジネス」を萌芽とし、これが、本格的なビジネスの領域に参入することも可能である。

第四は、公共部門の市場化は、効率化に資することのみを目的とするのでなく、持続的発展目的にも、資するものでなければならない。

そのためには、国際的見地にたった政府部門のコントロールにより、真の公益目的に、沿う方向づけが必要だ。

教育の市場化にしても、たとえば、「OECDの学校のグリーン化の方向に沿った教育を、市場化によって実現する」というような、新しいとらえ方が必要だ。

民間出身の首長が、市場感覚をもって、公共部門の効率化のみに努めることが、世間からの喝さいを浴びるような時代は、もはや過ぎたのである。


公民・NPOの活躍に期待

以上、改革を超える新しいパラダイム構築の必要性について、私なりの考え方を述べた。

計画経済健在なりし頃は、 二重経済とか混合経済とかいう概念で、市場と国家の問題を論じた時代もあったが、その意味では、現在は、三重経済であり、複合経済の時代でもある。

バブル崩壊の過程で、市場も失敗し、政府も失敗した。ここに新しいセクターとして、利他主義であり自己実現的である、公民・NPOの登場に期待したい。

さらに、政府部門のこれまでの不効率な点は、認めるにしても、政府部門の一層の質的強化は、経済システム機能強化のためには、必須の要件である。

グローバルで、持続的発展力があり、多様でしなやかな経済社会実現の方向に向かって、「毅然とした官僚、リスク・テイクな企業人、健全な公民・NPO」が、経済システムを、それぞれの力で有機的に支え合うことこそ、これからの姿なのではないだろうか。

('99年 8月30日更新)



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