田園環境図書館
ヨーロッパのアメニティ都市
-両側町と都市葉-

岡秀隆・藤井純子
(新建築社)(1997/1第三刷)
(2,200)

 

 

やや古い本だが、日本列島いまやすべて空洞化してしまった日本の都市の、これからのあり方を考える上で、貴重な示唆を与えてくれる。

同一著者による近著「アメニティ都市−細胞から八段階の統合-」と、あわせ読まれることをおすすめする。

どうして、日本の都市中心部は、郊外化・大型店化の波に耐えられなかったのか。

これを検証する意味で、本書を改めて取り上げてみたい。

日本の多くの都市が、戦後のモータリゼーションに抵抗なくあわせた形で、区画整理により碁盤の目状の都市を作ってきた。

なかでも、ことあるごとに、その代表例として都市計画の専門家から聞かされてきたのが、神話化された名古屋市の都市計画の成功例であった。

こうして、徒歩を主な交通手段とするお年寄りのコミュニティは寸断され、たとえば都市計画移転で遠くなった亡夫の寺参りに、タクシーを利用せざるを得ないといった有様となってしまった。

道路の拡幅で建った、新しいがなじみのない家で、徒歩圏での人間関係を遮断されたお年寄りがポツンといる、という光景も多く見られるようになった。

これらの、もっとも都市に根付いた人々にとって不便な都市ヘの改変は、都市がもっていた土着の活気を、多く失うことにつながっていった。

もちろん、下水道や公園・住宅計画などをも伴ったものであるから、すべてがモータリゼーション対応というわけではない。

しかし、右肩下がりの経済状況を迎え、改変されたこれらの都市は、現在、経済的にも精神的にも、いずれも厳しい空洞化現象にみまわれている。

モータリゼーション対応型でなかったら、もっと空洞化現象はひどかった、という考え方もあるだろう。

しかし、郊外の大型店に対抗するにも中途半端、中心都市部独自のアイデンティティを発揮するにも中途半端という状況に、多くの中都市中心部の商店街は、いまおかれている。

宇沢弘文さんによれば、望ましい都市については、二つの考え方があるという。

一つは、ル・コルビジェ「輝ける都市」の考え方であり、もう一つはジェイコブスの「アメリカ大都市の死と生」に代表される考え方でありるという。

氏によればル・コルビジェの、「輝ける都市」の考えの原型は、エベニーザー・ハワードの「田園都市」に始まり、パトリック・ケッデスの「広域都市」の考え方に引き継がれ、ル・コルビジェの「輝ける都市」につながっているのだという。

ル・コルビジェの考え方の基調は、都市を一つの芸術作品と見立て、合理的で最大限に機能化された幾何学的・抽象的な美しさを持つ都市であるという。

そして、商店街・官庁街・学校などが計画的に配置された、直線的で幅の広い道路をもった都市が出現した。

そこには、当然、汚らわしきものは排除するというスラム・クリアランスが伴った。

これに対し、ジェイコブスの都市は、四つの原則からなっており、これらはル・コルビジェの考え方とは、真っ向から対立する考えである。

原則の第一は、街路は、できるだけ曲がっていて、幅の狭いほうがよい。

第二は、再開発に際しては、ふるい建物をできるだけ残したほうがよい。

第三は、都市を構成する各地区は、それぞれがアイデンティティを持った多様なものでなくてはならない。

第四は、都市の各地区の人口密度は、高くなっているほうが望ましい。

というものである。

前置きが長くなったが、このル・コルビジェとジェイコブスとの考え方の対比で見れば、本書は、ジェイコブスの考え方にたったものといえる。

本書によれば、都市はいくつかの都市葉からなり、都市葉は両側町からなり、両側町は機能的・デザイン的に洗練された建築群からなり、建築群は町民の住まいからなり、住まいは町民個々人の部屋からなるという、。

都市は、この都市葉を単位として、一枚一枚木が葉をつけるように、大木として育つように成長する。

都市葉の中は、徒歩交通が基本となり、都市葉と都市葉との間をぬって、広域的幹線道路がある。

都市の個性は、都市葉の個性によって決まり、都市葉の個性は、それを構成する両側町・建築群・住まい・町民のアイデンティティの成熟度によって決まる。

両側街というのは、車を排除し、両側の町並みに守られ、人々が安心して行き交いできる、幅と雰囲気と機能を持った町である。

宿場町を想像してもらうとよいだろう。

大声をあげ゛ないと、道の向かい側の店にも声を掛けられない、幅広く区画整理済みの現代の多くの日本の町なみは、両側町とはいえない。

本書では、これらの具体例として、ヨーロッパのアメニティ都市24例、日本の両側町4例をあげている。

ヨーロッパの都市の核を構成するのは、広場である。

その代表例としてあげられているのが、ドイツ・ミュンヘンのマリエン広場を中心とする両側町の形成である。

1963年、半径600メートルの環状道路リンクが作られ、通過のみを目的とする定常的自動車交通が排除された。

これに対し、日本の両側町の例は少ない。

というか、かってあった両側町が、欧米に比し、抵抗なく跡形もなく消え去ってしまったというべきかも知れない。

あるいは、外界の敵に対し守った、または、異種のものとしてみる外界の視線に対し、まとまって守った、という歴史のある町に、多く両側町は残ったとも見て取れる。

本書で、その残った稀有の例として挙げられている奈良県樫原市今井町は、16世紀に一向一揆の拠点となった町で、現在の町割りは室町時代のもので、全棟800戸のうち6割が江戸時代のものであるという。

また、横浜の中華街も、その代表例である。

では、この「都市葉」と「両側町」の考えの復権で、どのような都市の活性化が図られうるのだろうか。

第一は、徒歩通行圏の復権による、いわゆる界隈の再現

第二は、都市葉と広域幹線道路との接点に、いかなる配慮を施すか

第三は、人々の住まいなり価値観を原点として、都市計画の再編をいかにはかるか

である。

太平洋戦争によって破壊された都市の再現を有力な導因として、戦後の都市の再編が始まったとすれば、21世紀を迎えた今日、今度は空洞化の生じない都市をめざし、成熟した考え方でもって、地にあしのついて新たな都市づくり(もっとも、都市は生き物でありひとつの生態系である以上、、都市をつくるという考え方自体、おこがましい考え方であると、私は思うのだが)を、模索する時にきているのではないだろうか

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