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庭園に死す | 野田正彰著 春秋社(1999年3月) (3,500円) |
「廃虚にこそ、真の美がある」との言葉があったように記憶されるが、本書においても、庭とは、その造り主の浄土へのイメージを具現化するもので、その造り主が死を迎えるまで、理想の浄土に近づけるため、飽くなき改変を繰り返し、造り主の死と共に、その完成を迎える、との意味の記述がある。 著者によれば、中国においても、庭園と呼ばれるものには、3つの種類があり、 第一は、矩形に仕切られた、いわゆる「庭」、 第二は、おおらかな現世の楽土を意味する「苑」、 第三は、あの世の世界を追求する「園林」である、 とのことである。 また、イギリスの風景庭園は、元々は、イタリアの荒廃した庭園の美しさを取り入れたもので、自然に戻るギリギリの段階で、入念な手入れを施したのであるという。 こうしてみると、洋の東西を問わず、庭園とは、造り主の現世感と来世感に深く関わっているものであり、また、自然であって自然でない、ギリギリの限界に、生きた景観のプレパラートのごとく、人為をもって押え込んだものが、庭園であるともいえる。 だから、造り主亡き後の庭園は、次なる持ち主の現世感・来世感にしたがって、造り変えられるか、放置され自然に戻るか、ありったけ手を加えられ、単なる都市の一スペースに埋もれるか、いずれかの運命をたどることになるのだろう。 筆者は、景観というものは、人に見つめられれば、必ず変っていくものだという。 いわば、時代の流れと共に、権力者のための景観から、庶民のための景観に移り行くに連れ、それまでの宗教的来世感に基づくものから、富士山に代表される、いわゆる日本人好みの景観感が、醸成されてきたと見てもよいのではないだろうか。 志賀重昂が「日本風景論」の中に、やや西洋的視点をもって、近代日本の仰ぐべき風景を論じたが、それは、たぶんにたたき台とした、ガルトンの書の影響が、大きかったと思われるし、その後の日本人の風景感に、日本アルプスに代表される、ヨーロッパのアルプス信仰とでもいうべきものが乗り移ったのは、そのせいでもあるともいえる。 本書では、お寺の庭に限らず、現代の都市景観を象徴するランド・スケープ、それに中国やヨーロッパの庭園などを加え、その景観の中で筆者が感じた心象風景を、136シーンにわたって、全て写真付でつづっており、そのそれぞれにおいて、それらの景観が、人間の精神にいかに関わっているかを、論じている。 人為の作り出す庭などの景観は、いわば、鬼っ子である。 人間がそれを作り出した途端、その景観自体が、ある種のエネルギーをもって、我々の精神を、規定しようとしているのであろうか。 庭の生命の方が人間の生命よりも、確実に永らえる限り、それは真実のように思える。 |
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