山形に用があったついでに、月山周辺の村を訪ねてみた。そこでであったのが、朝日村の多層民家。ダムのある山あいの行き止まりの集落で、威容を誇るこれらの民家を見たときは、息を呑む思いであった。何でも、今は、民宿になっているとか。ここ、朝日村の田麦俣集落は、昔は、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所だったそうで、湯殿山信仰の宿場町的な役割を果たして来たのだという。この重厚なつくりは、兜作りというものだそうだ。しかし、村を訪れた若者たちは、こんな民家には、目もくれずに、道の駅横に作られたバンジージャンプに無中になっていた。
全国都市緑化やまがたフェア「やまがた花咲かフェア02」が開かれているが、そのうちの会場のひとつ、新庄会場を、ちょっとのぞいてみた。なかに、坪庭コンテストのようなものがあり、そこで目についたのがこの、田園風景を模した作品。題して「里山の景」、酒田の造園建設協会の手によるもののようだ。古井戸の釣瓶の横に、8条ほどの稲、豆、それにご丁寧にも、赤シソ、青シソがペアで植わっている。いかにも山形の土地柄を修景に折り込んだもので、他の造園っぽいものとは、一線を画したものであった。新庄市長賞を獲得していたが、わたくしなら、大臣賞を差し上げるね。この造園の横に、ビオトープガーデンなるものがあったが、石だらけの水ッ気のない生態系で、ここには、いかなる生物が棲息しうるのかと、首を傾げるものであった。農作物や田園風景が庭の景観材になること自体、農業や農村風景の風化を逆に物語るものだ。とはいえ、 このような形で、新しい景観のハイブリッドができることは、造園の世界に新たな可能性を拓くものと思われる。
我が家の庭の池にある睡蓮は、近くの沼の野生のものを昔、移植してきたものだ。今年も、可憐な花をつけている。睡蓮を、別名「ひつじ草」というのは、未の刻(午後2時)ごろに花を咲かせる朝寝坊の花の故のようだ。ところで、有名な三高の歌「琵琶湖周航の歌」http://www.nagano-c.ed.jp/seiryohs/biwako.htmlのメロディーが、実は、吉田千秋が大正4年に「音楽界」誌8月号に発表した「ひつじぐさ」の曲だとわかったのは、千秋(1895-1919年)没後80年近くたった平成5年(1993)のことだった。(http://www.pref.shiga.jp/a/koho/ripple/vol15/tokusyu/index.htm参照)新津市役所企画調整課梅田様のお話によると、この吉田千秋訳詞作曲の「ひつじぐさ」は、千秋が生れた新潟県新津市(旧中蒲原郡小鹿村)の「小合(こあい)合唱の会」によって、いまも歌われているという。(http://www.sasayama.or.jp/diary/hitsuji.htm参照)「おぼろつきよの月あかり、かすかに池のおもにおち、波間にうかぶかずしらぬ、ひつじぐさをぞてらすなる」という歌詞なのだが、これは、千秋18歳のころ、「Water Lilies」という英詩を翻訳し、雑誌「ローマ字」第8巻第9号(大正2年9月号)に掲載されたものだという。では、この原詩の作者はだれなのか?吉田千秋が入学した東京府立四中の後身、東京都立戸山高校の元教諭森田穣二さんの書かれた「吉田千秋「琵琶湖周航の歌」の作曲者を尋ねて」(新風舎.1997)によれば、原典は「E.R.B:Songs for our Little Friends、Frederick Warne & Co.London.1875」だという。この歌詞は、次のようなものである。Misty moonlight,faintly falling O'er the lake at eventide,Shows a thousand gleaming lilies On the rippling waters wide森田さんの本によれば、ある方が、このWater Lilies の楽譜があるかどうか、人を介してBritish Museumにたずねたところ、贈られてきた楽譜は、まったく違った子供用の単純なものだったという。では、作曲者は、吉田千秋なのだろう。しかし、それにしても、この賛美歌調のメロディーは、吉田千秋さんが、どのような音楽経験によって、感化されたものなのだろう。大正1-5年あたりに、日本にどのような賛美歌が導入されていたのかも、大いに気になるところである。ここで明らかなのは、Frederick Warne & Coというのは、出版社の名前で、この出版社は、ベアトリックス・ポター(Beatrix Potter 1866-1943)が、1890年に初めての絵本「A HAPPY PAIR」をH.B.Pの名で出した出版社である。(http://www.penguinputnam.com/static/packages/us/about/children/warne.htm参照)後に、1893年、ポターは、あの有名な「THE TALE OF PETER RABBIT」の初版本を書き、それを1901年に、私家本として、このFrederick Warne & Coから出版した。余談だが、ポターは、Frederick Warne の三人の息子の一人Norman Warneと婚約するのだが、Norman Warneは、1905年、不慮の死をとげる。では、この作詞者とされるE.R.Bとは、何者なのだろう。インターネットの検索では、「ターザン」の原作者エドガー・ライス・バロウズ (Edgar Rice Burroughs)(1875-1950)しか出てこない。(http://www.kirjasto.sci.fi/erburrou.htm参照)しかし、エドガー・ライス・バロウズが、子供向けの歌を作ったという痕跡はあるが、Water Lilies という歌を作ったということはでてこず、しかも、彼は、シカゴ生れであり、1875年出版との世代もあわない。Water Lilies という名前の詩をかいているのはSara Teasdale(1884-1933)http://www.bonniehamre.com/Personal/Sara.htmの作詞したWater Lilies( http://www.classicreader.com/read.php/sid.4/bookid.1246/sec.82/ )があるが、歌詞は、まったく違うものである。。ちなみに、この詩は、If you have forgotten water lilies floatingOn a dark lake among mountains in the afternoon shade,If you have forgotten their wet, sleepy fragrance,Then you can return and not be afraid.というもので、しかも、Sara Teasdaleは、アメリカの人であり、1875年出版との世代もあわない。さらに、森田穣二さんから、歌詞 Robert Nichols (1893-1944) 、作曲 Peter Warlock (Philip Arnold Heseltine) (1894-1930)による, WaterLilyという歌がCDでだされていることをお知らせいただき、確かめてみた。この歌詞は、http://www.recmusic.org/lieder/n/nichols/wl.htmlにかいてあり、次のようなものである。WaterLily The Lily floated white and redPouring its scent up to the sun;The rapt sun floating over headwatch'd no such other one.このように、歌詞も曲も時代も異なるものであることがわかった。私の個人的推測では、E.R.Bというのは、人の名前でなく、教育・リセツルメント(移民者教育)のイギリスでの機関名なのではないかと思う。たとえば、Education and Resettlement Britain または、Educational Records Bureau などといった機関名である。この謎を解くカギは、やはり、出版社のFrederick Warne & Coにあると思う。そこで、Frederick Warne&Co 社発売の本で、Water Liliesという名の本が発売されたかどうかをインターネットで調べてみると、古本のオークションのページに、それらしきものが見つかった。http://www.angelfire.com/biz/STLBookFair/auction2002.htmlによると、本の持ち主の名が鉛筆でかかれており、その日付は、1882年となっているという。ぴったりではないか。この本は、作者名 Mabel とされる10部作の内の一つで、そのそれぞれは、George Lambertによる24枚の絵がかかれているという。10部作の本の名前は、1.Playmates 2.Mary Flowers 3.Harry's Jack-Daw 4.Moonbeam 5.Little Freddie's School Days 6.Water Lilies 7.Sunbeam 8.Bonnie 9.Grannie's Young Days 10.Smiles とのことである。しかし、このWater Liliesという本が、単なる絵本なのか、歌の本なのかは、わからない。オークション元にメールで照会したが、すでに、この本は、今年の4月に売れてしまったとのこと、残念。例のE.R.Bなる作者名らしきものの解明も、まだである。わたくしの「ひつじぐさ」原詩探索の旅は、まだまだ続く。
小金井市にある松田静野さんが自宅を開放してのロ ーズガーデン「風花」。松田さんとバラとの出会いは、終戦直後の吉祥寺の闇 市で見つけた、一枝のバラだとか。こうして、自宅を開放してのローズガーデンが、いつの 間にやら、口コミで、関東近辺からも、広く、この季節 になると人を集める名所となってしまった。松田さんは、今年もお元気で、自ら、ガーデンを案内さ れ、バラの手入れについての質問に答えられていた。松田さんのひととなりについては、次のURLをご参照。http://www.excellence.ne.jp/tokushu/v1/v1_tokushu_3.html
芸術づいたようで恐縮だが、今度は、雪舟展をみにいった。 中でも、気になるのが、この京都国立博物館所蔵の国宝「天橋立図」。この絵のとなりに、実際の天の橋立を航空写真でとったものが対比して並んでいるのだが、どう見ても、雪舟が、いくら高い山にのぼったとしても、この絵を地上でみたまま書いたものとは思えない。いま、カシミール3Dというソフトをつかうと、地図のデータを入力すれば、バーチャルな景観が現出されるが、おそらく、雪舟の頭の中の景観感覚には、このようなXYZの座標軸変換回路が、おのずと備わっていたのではなかったのだろうか。 これを画いたのが雪舟80歳の年だというが、「意識のなかで空を飛ぶことのできる雪舟」の面目躍如といったところだ。
カンディンスキー展を見に行った。この「対象が、私の絵を損なっている。」と、カンディンスキーに感じさせたのは、氏がモスクワ大学卒業後、モスクワ郊外のヴォルグダの民俗調査に出かけた節、そこのゼラン人の民俗工芸品に、その地につたわる神話の魂を抽象化したデザインが使われているのを見、対象を写し取るよりも、色や面で表した方が、自分の心を表現できると確信したのだという。この絵「コンポジション7」にある「オールや小舟」らしきものは、「復活」を、「弓矢」らしきものは、「怒り」を 表しているのだという。いまの日本の政治の世界も、形ある目先のものにとらわれ続けていることで、未来永劫追求されるべき、何物かを、みうしなっているのかもしれない。
厚く重い雪が溶け放たれると、今年も、我が家で真っ先に咲き始めたのは、水仙と、この写真の雪割草だ。数年前に、ある方から、株分けしていただいたものだが、すっかり居心地よく、土になじんでいるようだ。この句の作者の三橋鷹女(1899-1972)というかたは、かつて女性俳人の中で4Tといわれた方(中村汀女、星野立子、橋本多佳子)の一人だそうで、女性の内面にもつ激しさを、的確に句風にされている方である。なかでも、鞦韆は 漕ぐべし 愛は 奪ふべし (注―鞦韆−しゅうせん−はブランコの意)夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなりなどは、男性の目からみても、爽快さを感じる句だ。明治女のもつ、凛とした気品と瑞々しさとは、かくなるものかと、おもいしらされる。ところで、この句の「みんな夢」というのは、字ずら通り、「みんなが冬の間夢見ていた」雪割草の開花と見ていいのだろうか。つぎの「咲いたのね」との女言葉で同意と共感を求める部分に、虐げられてきた女性の復権への確証をみたのは、私だけであろうか。晩年、三橋鷹女は、こんな言葉をつぶやきながら、この世を去った。「一句を書くことは、一片の鱗の剥奪である。一片の鱗の剥奪は、生きていることの証だと思ふ。一片づつ、一片づつ剥奪して、全身赤裸となる日の為に「生きて 書け・・・」と心を励ます。」 老ひながら 椿となって 踊りけり
陶淵明の「桃花源記」でかかれた場所は実在しているのだろうか?中国・湖南省の省都・長沙の近くの常徳がその地であるとの説もあるが、トマス・モアの「ユートピア」の原題が「No Where」(どこにもない)であるように、その存在は、わからない方が、我々に夢を与えてくれる。日本の桃源郷、山梨県・一の宮町を訪れてみた。一口に桃の花といっても、近寄ってみると、花の色にも濃いもの薄いもの、花弁の厚さもあついの、うすいの、さまざまあることがわかる。桃の種類も何十とあり、それぞれ収穫時期が異なるのだから、栽培農家も大変である。早いものは、花が咲いて75日後には収穫できるという。桃源郷の老木の連なりを期待して、そばにいくと、いずれも、若い小さな木であると知り、がっかりする。在来種から優先種への樹体更新が盛んであるのと、栽培農家がいずれも高齢化しているため、リンゴと同じく、矮化栽培が進んでいるせいだ。このように、桃源郷の現実は厳しいのだ。 (2002/04/05記)
この句で作者の富安風生が詠んだのは、千葉県市川市の真間山弘法寺のしだれ桜である。「自選自解富安風生句集」(白鳳社)のなかで富安さん自身は、この時の心境について、次のように述べている。「ただ一翳もない真青な空から、天蓋のごとくに、八方にしだれた彼岸桜を、きのうのことのように瞼の奥に画くことが出来る。周囲の風景、雑物一切を擲却して、一面に青く塗りつぶした生地に、目的の糸桜だけを大うつしにした構図、上五、中七、下五と流暢な調べにととのえた−糸桜のえだのように詠い流した句法に成功があったとみえて、人にもよろこばれたようだと自分でも、愛好している。」(2002/03/20記)
「窓は 夜露にぬれて みやこすでに 遠のく 北へ帰る 旅人ひとり なみだ流れて やまず」なのだが、実は、この歌を作詩・作曲した宇田博さんは、東京の一高をおわれ、この寮歌の旅順高等学校に流れ着いたのだが、そこも、おわれるときに、下宿に残していったのが、この歌なのだという。それは、この歌の元歌の二番「建大一高旅高 追われ闇をさすらう 汲めど酔わぬ恨みの苦杯 嗟嘆ほすに由なし」の通りだ。ところで、この写真の白鳥たちは、日本の自称環境派と称するみなさまによる、餌付けの好待遇で、すっかり北帰行をわすれてしまったようだ。先の北帰行でいえば、4番の「わが身容るるにせまき国を去らんとすれば せめて名残りの「餌付けの餌」(花の小枝) 尽きぬ未練の色か」といったのが、 白鳥たちの心境か。(2002/03/10記)