笹山登生の発言・寸感アラカルト


2002年6月8日

より広義のガバナンス模索の時代か?


「市場の認識の収束」という言葉があったんですね。

相場観が、ひとつの方向に収斂していくということなのでしょうか。

URLhttp://www.panrolling.com/etc/users/soros.html のように、そもそも、市場なんてものは、収束しないで、あるバイアスをもって、途中経過で、一つの結論が出されるということもいわれているんですね。

まあ、世の中に市場による勝者・敗者が生れても、たとえ、その市場が操作されたものであっても、その結論による争いごとは、おきないという、社会の知恵なんですかね。

この知恵も、ポスト・グローバリズムの世界では、通用しなくなる可能性がありますね。

このウェブの田園環境図書館で紹介されている「地球公共財」では、超市場の世界をえがいていますが、そんなところが、国を超えた社会循環機構の姿なのでしょうか。

最も、この世界は、国連職員など、民からの選抜の過程を経ていない、国際官僚の恣意--外務官僚のことではありません。ハハ。--に、あらゆる政策決定が任されてしまうとの、危惧も、抱かれていますね。

民からの選抜の過程を経ている政治家は、フィルターのないゴミで、収拾をつかなくさせるばっかりで、新たなガバナンスのあり方が問われます。

ガバナンスというと、私企業での経営者と株主とのコーポレートガバナンスの関係というような狭義のものとして、とらえられがちですが、より広義のガバナンス、たとえば、地球公共財というような、人類・地球共通の財のマネジメントをどうするかという場合にも、URLhttp://www.jcie.or.jp/japan/nenji99/g03.htm のように、この概念は、適用されてしかるべきだと思います。

いわば、三権分立という古来からの拮抗関係を、地球公共財のマネジメントに適用しようにも、あまりにもドメスティックで、使いようがないというのが、9.11以降の昨今の課題となっているのではないでしょうか。

さらに、従来、政策決定過程をになってきた官僚自体も、課題領域の広がりに対処しえなくなってきたという現実もあります。

そこで、国際的NGOだとか、国際機関の世界官僚だとかが、各国の意思決定を受けて、いわば過渡期における国際的地球的課題についての擬似的なガバナンス体制をしいているということなのでしょうか。

しかし、その意思決定は、あくまで、各国ベースのものが原点であるというのが、一つの限界になっているということなのでしょう


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