笹山登生の発言・寸感アラカルト


2001年1月19日 小沢征爾とクライバー

なにかと話題を呼んだ小沢征爾さんのニューイヤーコンサート。1月7日には、早くもヨーロッパでCDが発売され、相当な売れ行きだという。

日本発売は今日からだが、それを上回る売れ行き必至だろう。

それにしても、中国生まれ日本人の、このニューイヤーコンサートは、ウイーンの人にどう映ったのだろう。

1992年のクライバーはべつとして、一昨年のムーティー、昨年のアーノンクールと、やや、新年にしてはいかついイメージの指揮者が続いているだけに、小沢さんのやや固いイメージが、ウイーンの人にどうみえたのか?音楽家に国籍は関係ないとしても、ニューイヤーコンサートの歴史は、まさに、オーストリアの歴史そのものであるからだ。

ニューイヤーコンサートのそもそもは、1873年のヨハン・シユトラウスの祝典コンサートに始まり、1929年より1933年まで、クレメンス・クラウスの「ヨハン・シュトラウス・コンサート」に引き継がれ、1939年よりニューイヤー・コンサートがはじまったとされる。

その間、ナチの支配下でコンサートをやったという理由だけで、第二次世界大戦後、クレメンス・クラウスやフルトベングラーが指揮台に立てなくなり、そのあとをめぐって、  いまのカルロス・クライバーのお父さんのエーリッヒ・クライバーに要請があったが、彼は、これをことわった。

エーリッヒ・クライバーは、ナチと対立し、いまのカルロス・クライバーが幼いころ、ベルリンからヴェノスアイレス等に脱出したという反骨のひとである。

ちなみに、このとき、息子のカールは、ブェノスアイイレス調にカルロスとなったのだという。

この間においても、エーリッヒ・クライバーは、フルトベングラーを擁護しつづけたという。

このように政治的な尾まで引いたニューイヤーコンサートも、衛星放送で、世界各国に中継されるにつれ、徐々に世界化していった。

その後のボスコフスキーやマゼールなど、生粋のドイツ・オーストリアの指揮者による

のは、1986年までで、その後は、アメリカ生まれのカラヤン、イタリア生まれのアバド、ムーティー、インド生まれのメータなど、指揮者も多国籍化していった。

小沢征爾さんのお父さんである開作さんは、歯科医でありながら、  満州共和会のメンバーとして満州国建設を同志とともに願う、異色のかたであったらしい。

ちなみに、征爾の征は、板垣征四郎の征から、爾は、石原莞爾の爾からとったものだそうだ。

こうなると、太平洋戦争を小沢征爾のお父さんは、征爾をつれて、中国から日本へ敗走し、クライバーのお父さんは、カルロスを連れて、ベルリンからブェノスアイレスへ脱出するという、ある意味で共通の経験をもった指揮者といえる。今年の秋からウイーン国立歌劇場の音楽監督になるそうだが、やや禅的な雰囲気をかもしだす異質感が、ウイーンの人々にどううけとめられるのであろうか、小沢さんが桐朋に転校する前の高校の後輩としては、気になるところである。


HOMEへ目次へ

HOME -オピニオン -政策提言 -発言-profile & open -著書 -政策行動-図書館-掲示板-コラム-リンク-政策まんが