笹山登生の発言・寸感アラカルト


2001年5月18日 ハンセン病国賠訴訟判決を契機に考えるべきこと


お知らせ−この発言をアップした後の2001/05/23午後6時過ぎ、小泉総理は「国は控訴せず。」との決定をくだしました。

下記のいずれかをクリックしてください。 

その一(2001/05/18記) その二(2001/05/22記)
その三(控訴断念後記)

その四(2001/05/26記)



その一 (2001/05/18記)



ハンセン病訴訟控訴の是非をめぐって、その国会決議の対応について、与党・野党とも、下記URLのとおり、混乱しているようである。
http://www.mainichi.co.jp/news/flash/seiji/20010518k0000m010166001c.html

今回の判決では、二つの国家賠償法上の責任が問われている。

ひとつは、厚生労働大臣の職務行為についての責任だ。

これを控訴するかどうかの対応は、「国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律 」http://www.houko.com/00/01/S22/194.HTMにもとずき、法務大臣が判断することだ。

もうひとつは、立法府がしかるべき立法措置を取らなかった立法不作為についての国会議員の責任についてだ。

これについて、控訴するかどうかの判断は、「国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律 」の対象となる「行政庁(国に所属するものに限る。)の所管し、又は監督する事務に係る前条の訴訟」にもとづくことは、難しいのではないか。

いわば、控訴判断の主体が、グレーゾーンの分野にあるというわけだ。

だから、国会決議の目的も、法務大臣に判断を促す目的と、それでカバーし得ない部分について、立法府の長に判断を促す目的そして自省とのみっつの目的があるわけだ。

では、国会決議を受けた衆議院議長は、その決議を、誰に対して、ものもうしたらよいのか。

控訴する主体ではないが、判断の権限はあるというのであろうか。

ブーメランのようになる可能性もなくはない。

今回の判決をうけての混乱は、憲法上の人格権論議をすっ飛ばして、直に国家賠償法上の責任に持ち込んでしまったことで、やや、ショートカットな判決なってしまったことが原因なのではないか。

判決では、「人権制限の実態は、より広く憲法13条に根拠を有する人格権そのものに対するものととらえるのが相当である。」としている。

憲法25条の生存権なり憲法13条の幸福追求権は、プログラム規定(綱領規定)とよばれるもので、経済的・環境的な生存権や幸福追求権を保障するために、公権力にたいし、立法府に対し、それを担保しうる立法の義務を憲法サイドから要請する意味合いをもったもので、25条や13条それ自体が、国民に請求権を与えることを保障しているものではないとする見解が有力だ。

このハンセン病のケースでは、立法府が、その立法義務履行の時期を失ってしまっていたため、この判決では、ただちに原告に国家賠償法上、請求権を与える判決となったのだろう。

しかし、この判決内容を普遍化すれば、司法救済を担保しうる立法の責任を怠ってきた立法府の責任は、ハンセン病に限らず、水俣病などについても問われることは、当たり前ともいえる。

異例なケースとはいえ、こうなると、憲法13条なり25条による司法救済の領域が一挙に拡大することになり、よろこばしいことではあるが、今後の各種判決に及ぼす影響は重大なものとなるのではないだろうか。

「国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律 」の見直しも、この際必要だ。

第一、この法律は、立法府の責任のついての控訴判断を前提としたものではないし、法務大臣の判断に、必ずしも国民の判断が反映される仕組みとはなっていない。

まして、今回のように、行政府も立法府も同罪といった場合、では、シビリアンな判断がどこでできるのかが問題となる。

少なくとも、法務大臣の意思決定を補完するためのシステムとして、例えば、第三者委員会を作るとかのシステム変更はしてもいいのではないか。

この判決に限らず、先週の水俣病関西訴訟の上告に見られるように、国が国家賠償法上の責任を問われる場合、これまで多くの場合、原告の高齢化に関わらず、徹底的に控訴、上告してきた。

国の方は、担当する人はかわっても、組織としては永遠なわけだから、時間の経過とともにどんどんなくなっていく原告にくらべれば、最初から 優位な状況にあるわけで、国を守る立場のみに立てば、ここに国の人道的な配慮がなされる余地はないわけである。

結果、原告が死に絶えるのをまつかのように、国の控訴・上告が永遠にくりかえされるというのは、どう考えても、げせないものがある。

水俣病の政治決着の場合でも、当時の村山首相は、「国の国家賠償法上の責任はないが、解決がおくれた結果責任について、おわびする。」というものであった。

しかし、解決がおくれたのは、控訴・上告をくりかえした、国の責任なのではないかともいいたくなる。

今回のハンセン病でも国のお詫びがくり返される雲いきである。

このような日本的、情緒的おわびの乱発は、かえって国の人道上の無神経さを露呈するものであると考えるのは、私だけであろうか。

国の責任を問う場合には、司法にも「時のアセス」的考え方を取り入れることが必要な時代となってきているのではないだろうか。




その二 2001/05/22記)



国は、、今回判決のうち、遅くとも昭和四〇年以降に新法の隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為については、過去の最高裁の判例にそぐわないものとして、控訴する予定であるという。 http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20010522CCCI064222.html

そもそも、この国がよりどころとしている判例は、昭和60年11月21日の「在宅投票制度廃止違憲訴訟判決」といわれるもので、重度身障者の在宅投票制度を廃止したのは違憲であるとの訴訟である。

ここで問われたのは、第四十七条(選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。)である。

ここで、判決は、「国会議員の立法行為は、立法の内容が憲法の一義的な文言に違反しているにもかかわらず国会があえて当該立法を行うというごとき、容易に想定しがたいような例外的な場合でない限り、国家賠償法第1条1項の規定の適用上、違法の評価を受けない」とした。

さらに「憲法第47条は投票の方法などの選挙に関する事項の具体的決定を、原則として立法府たる国会の裁量に任せている。」とした。

国会議員が、職務権限を行使しなかった場合、二つの捉え方がありうる。

一つは、国民の生命・健康・財産が危機的状況にあるばあいは、国会議員が持っている裁量権は収縮するという観点からのとらえかた、もうひとつは、国会議員が持っている裁量権の如何にかかわらず、行使する権限の目的と照らし合わせてみて、作為の義務があったかどうかという観点からのとらえ方である。

今回のハンセン病訴訟熊本地裁判決においては、前者の裁量権収縮論にたったものであり、政府が控訴の理由とする最高裁判例となる在宅投票制度廃止訴訟においては、後者の作為義務論にもとずくものである。

作為義務論の最高裁判例にもとずいた場合、ハンセン病訴訟熊本地裁判決が、「隔離規定によってもたらされる人権の制限は、憲法22条1項が補償する居住・移転の自由の枠内よりは、より広く、憲法13条の人格権そのものに対する人格制限である。」としている点を逆手にとらえ、国は、戦後新憲法下における1953年改正の新らい予防法における、6条(らい患者の国立療養所への強制入所).15条(外出の制限)、28条(外出制限違反に関する罰則)等について、「憲法13条の一般的文言の、どこと違反しているのか。隔離規定の廃止について、国会議員の立法作為義務はなかったのではないか。」といいたいのだろう。

では、憲法22条1項違反なら、立法作為義務は認めるのかともいいたくなる。

憲法13条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)において国会の裁量権はどの程度、認められるのであろうか。

この場合、国会が違憲状態を認識して後、どの程度の猶予期間の後に、立法にふみきることができるのか、これが、国会の持つ時間的な裁量権とみることができよう。

過去の最高裁判決では、最高5年とみられている。

ハンセン病の場合は、1941年アメリカにおいて完治の可能性が指摘され、1950年代には、国際的に隔離政策の誤りが指摘され、日本においては、以後半世紀後の1996年3月27日にようやく「らい予防法廃止法」が成立したとなれば、立法府の裁量権を認めうる立法までの猶予期間は、とうに過ぎていたとみなければならないだろう。

判決文のように「新法の隔離規定の違憲性は、遅くとも昭和三五年には、明白になっていた。」と解釈するのが妥当なのだろう。

国会議員に国家賠償法上の責任がありとしたばあい、これを国家が賠償するのは、国会議員の不作為の責任について国家が代わって賠償するのだろうか(代位責任)、それとも、合議体としての国会に権限を付与した国に責任(自己責任)があlリ、賠償するとみるのだろうか。

国会議員に責任を付与したのは、国民であるとも見られるところから、そこに、公務員とは異なる微妙な問題があるようにもかんじられる。

憲法13条の違憲の可否が、原告に具体的請求権を与えるか否かについては、2説がある。

一つは、これは、規範的に立法を促すプログラム規定に過ぎず、法律に明示規定が無い限り、損失補償請求権は発生しないとする説である。

もう一つは、明示された規定が無くとも、損失補償の請求ができるという説がある。

今回の場合、これら過去の経緯にとらわれず、憲法13条にもとずく直接的な請求権を認めたという点で、これは画期的な判決といえる。

さらにいえば、本来はプログラム規定として規範的な司法判断を示せば、立法府がそれを斟酌し、健全な立法活動を行うことにより、いたずらに、憲法に直接請求権を認めなくとも機能するはずが、機能しないものだから、憲法上の直接的請求権を認めざるを得ないという、司法・立法府のジレンマが、そこにあるのではないのか。

このように、このハンセン病訴訟熊本地裁判決の問題は、在宅投票制度廃止違憲訴訟の最高裁判例を踏襲し控訴するには、あまりに次元の異なる判決であることを、私どもは、まず理解する必要があるのではないだろうか。


その三(控訴断念決定後に記述)

お知らせ−この発言をアップした翌日(2001/05/23)午後6時過ぎ、小泉総理は「国は控訴せず。」との決定をくだしました。
英断であると、小泉総理のご決断を高く評価いたします。
なお、同時に福田官房長官が、控訴断念の発表とともに示された、熊本地裁判決の問題点について、下記のとおりの見解をしめしておきます。




ハンセン病訴訟控訴断念内閣官房長官談話のなかで問題とした判決の問題点


URL: http://www.asahi.com/politics/update/0523/014.html
http://www.mainichi.co.jp/eye/feature/article/koizumi/200105/23-15.html

官房長長官談話は上記URLのとおりだが、その中で判決の問題点について触れているのは、次の点についてである。


本判決の主な法律上の問題点

(1)国会議員の責任は、国民全体への政治的責任にとどまり、国会議員が個別の国民の権利に関する法的責任を負うのは、故意に憲法に違反し、国民の権利を侵害する場合に限られる(最高裁判例)。
これに対して、本判決は、故意がない国会議員の不作為に対して法的責任を広く認めている。このような判断は、司法がそのチェック機能を超えて国会議員の活動を過度に制約することとなり、三権分立の趣旨に反するので、認めることはできない。

(2)民法の規定では、20年以上前の権利は消滅すると定められている(除斥期間)が、本判決では、結果的に40年の間にわたる損害賠償を認めるものとなっている。

この点については、患者・元患者の苦しみを十分くみ取って考えなければならないものであるが、そのような結論を認めれば、民法の規定に反し、国民の権利義務関係の混乱を生じさせるなど影響があまりにも大きく、法律論としてはこれをゆるがせにすることはできない。




以上が、控訴断念発表とともに、福田官房長官が示した、熊本地裁判決の問題点だが、これについては、次のようなことがいえるのではないか。

(1)については、
昭和60年11月21日の「在宅投票制度廃止違憲訴訟判決」においては、違法性の要件を厳しくとらえ「国会議員が持っている裁量権の如何にかかわらず、行使する権限の目的と照らし合わせてみて、作為の義務があったかどうか。」という観点からの「作為義務論」にたったとらえ方である。

熊本地裁判決においては、これと対照的に、「国民の生命・健康・財産が危機的状況にあるばあいは、国会議員が持っている裁量権は縮小する。」という観点からの「裁量権収縮論」にたったとらえ方である。

以上のように、いずれの論理を取るかには、いまだ議論のあるところで、作為義務論にもとずいた判例のみを振りかざしうる状況には、ないのではないか。

(2)については、
国家賠償法第4条により民法規定の適用がされるのは、

「私経済的作用のあるもの」と、

「国家賠償法に定めの無い事項(損害賠償の範囲、過失相殺、時効など)」


消滅時効については、民法724条により、損害および加害者を知ったときから3年間または不法行為の時から20年間で賠償請求権は消滅する。

熊本地裁判決で問題とされているのは、

「民法上の賠償請求権の消滅年数の国家賠償法適用如何」を問題としているのではなく、「除斥期間の起算点がいつか。」ということなのであって、

「除斥期間の起算点となる「不法行為の終了」はいつだったのか。」

「違法行為終了時において、人生被害を全体として一体的に評価しなければならないとすれば、それは新法廃止時ではないのか。」、

「そうだとすれば除斥期間の規定の適用はないのではないか。」

ということを問題としているのである。

この「不法行為のとき」の起算点をめぐっては加害行為時説、損害発生時説、進行性被害の場合は、「損害発生時」「最初の行政決定の時」等の諸説があり、今回、国が指摘している問題点の本質は、むしろこの起算点の解釈の違いにある。


この点をあいまいにし、国会決議にのぞんでも、「人生被害を全体として一体的に評価し、遺憾の意を表する」のか否かが、問われることになるのではなかろうか。



その四(2001/05/26記)


何のための国会決議かを明確にすべき

ハンセン病訴訟判決に対する国会の決議案作成が難航している。

協議の焦点は、患者の隔離政策を定めたらい予防法の改廃を国会議員がしなかった不作為行為について、熊本地裁判決が、「過失があった」と法的責任を認めた点について、政府声明が言及した「(国会議員が)個別の国民の権利に関する法的責任を負うのは、故意に憲法に違反し国民の権利を侵害する場合に限られる」とする八五年の最高裁判決を国会決議に盛り込むかどうかについてであるという。

政府声明が、わざわざ熊本地裁判決の問題点についてふれたのは、今後この地裁判決が先例化して、国会議員の作為義務・職務権限のないものについても、その不作為が司法の場で問われることを防ぐため、政府声明の中におりこんだものだ。

司法審査を否定するかいなかの問題だ。

いわば、司法の立法府への干渉を少なくするためのおまじないを、政府声明の中に盛り込んだだけで、このおまじないが、司法の場で効力を発揮するかどうかは、専門家の間でも、大いに疑問視されている。

このおまじないを国会決議の場でも、補強する必要があるのかどうか。

ましてや、立法府は当事者である。

受験生がお守りをいくつも持っても効果がないと同じように、あまり、これにこだわれば、「盗人にも三分の理」のような批判を国会が受けてしまうのも得策ではない。

私は、おまじないは政府声明の判決問題点の指摘一つで十分であるとおもう。

だから、決議では、国会議員が作為義務があったかどうかについては、ニュートラルな見解にしておいて、裁量権を発揮しうる猶予期間を超えた立法府の対応であったことを率直にお詫びする趣旨のもので十分であると思う。
 

追記-ハンセン病リンク集にこのページがリンクされています。

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