笹山登生の発言・寸感アラカルト


2001年12月30日 小泉構造改革の視点の誤り−公的部門と私的部門とでは、やるべきことがちがうのに−

地方経済は、困窮の極みに入りました。

今朝のテレビで、日産のゴーンさんが、改革の成功者呼ばわりをされていましたけれども、リストラによって、私的企業の負担から、失業手当という公的負担へと、シフトさせ、はじき出した意味での成功者というにすぎないのですから、マクロの国民経済では、何のプラスにもなっていないのですよね。

もちろん、ゴーンさんが、一私企業のトップとしても卓越した手腕を発揮したことに異論はありません。

ただ、これをステロタイプ化して、すべての改革手法についても、これを踏襲すべしとの世論になることを懸念するものです。

私的部門の改革と公的部門の改革とは、その役割が違うということ、ミクロの改革とマクロの改革とは違うということを、公的部門の改革にあっては考えていかなくてはならないでしょう。

私的部門と公的部門とは、クラウディング・アウト-私的部門が引っ込めば、公的部門が肥大化するといった具合に-の関係にあるのです。

リストラによって、ミクロとしての私企業の収益が改善されたとしても、マクロとしては、失業手当など公的負担の増大となり、国民経済ベースでのリストラ効果の帳尻は、差し引きゼロになってしまうのです。

失業者を出さないリストラであれば、その企業のリストラは、社会的に意義のあるものになるでしょう。

もちろん、そのようなリストラでなくても、大企業が全部従業員を投げ出してしまうよりは、まだましなのかもしれません。

ですが、リストラ後の、その企業単体の収益のみで、その効果を判断することは、おかしいと思います。

私的部門は、このように、リストラの帳尻を公的負担に転嫁することができますが、では公的部門でのリストラはどうでしょう。

公的部門への支出間のすり替えにすぎなくなってしまいます。

つまり、無駄は省けたが、失業者は増える・公的支出は増える-という具合にです。

私的部門が好況の時と、不況の時とでは、公的部門の果たす役割がかわってくるのです。

不況の場合は、公的部門がバッファーの役割を果たすのです。

ところが、いまの日本経済には、景気後退時のバッファーが少なくなっているのです。

1970年代の石油ショック時、ヨーロッパの外国人労働者たちは、定住か、さもなくば本国送還かの選択に迫られたといいます。

日本より30年以上の外国人労働者雇用の歴史を持つヨーロッパでは、こうして、景気後退時には、外国人労働者が、雇用調整のバッファーに使われたのです。

日本国内の農業についても、同じことがいえます。

好況時には、限界的労働力として、不況時には、農業を最後のよりどころとして、雇用調整のバッファー的な役割を担ってきました。

ところが、現在の日本の景気後退時においては、このいずれのバッファー・カードというものを有しておりません。

社会保障水準以下の日本農業の実収手取りにしてしまったことが、バッファー機能を有し得ない一つの要因としてあるでしょう。

この際必要なのは、失業者のオルターナティブを多岐のものにすることです。

公的支給をただ消費に横流ししても、生産と消費を繰り返しても、消費の総量は変わりませんが、後者のほうが、生産に伴う消費の総量を高める意味では、はるかによい選択でしょう。

完全雇用は予定調和により達成されるという考え方で、リストラされた後のことは市場に任せるというかんがえかたでは、  需要総量の増加というダイナミズムは生まれないものと思います。

また、公的部門が、指摘部門と同じことをやっても、マクロとしては、正しいこととはいえません。

これが、小野善康が「誤解だらけの構造改革」で強調している、小泉構造改革の持つ「合成の誤謬」です。、

ミクロで正しいことでも、それと同じことを私的部門も公的部門も同じやり方で同時にやれば、それは、マクロでは、誤ったやり方になるのです。

完全雇用を前提とした経済学では、この辺のことが、どうも説明できない状態になっているのが、今の失業率5パーセント以上の日本経済の実態です。

とにかく、やせてもかれても、低賃金でも、いいから、失業者を出さない政策が、今一

番の日本経済建て直しの特効薬なのです。

妙な正義感にもとずく構造改革は、マクロでは、何の効果もないともいえるかもしれません。

このように、需要サイドが長期的に縮小する中で、供給サイドの合理化だけ先行しても、意味がない とおもいます。

リストラは、企業外にたいしては、一種の外部不経済を招いているわけです。

その外部不経済を、企業は内部化できないし、またしようとしないでしょう。

現在のリストラは、供給サイドの合理化を狙いにしているのではありません。

需要の絶対量が枯渇しつつあるのです。

「日本企業は立派な生産設備と技術を持っているのだから」というひともいますが、長期的に需要の総量が縮小するという前提に立てば、どんな立派な設備でも、過剰な生産設備であり、どんな立派な人材であっても、過剰要員となってしまうのです。

したがって、十分に合理化された生産設備を持つ企業でさえ、それ以上の合理化リストラを迫られているのです。

そのリストラは、さらなるマクロとしての需要を枯渇させていく。

このむすぼれをほぐすためには、需要サイドにおける何らかのビッグプッシュが必要なのだと思います。

手っとり早いのは、ワークシェアリングの進行で、たとえ疑似就業者であっても、失業者をなくしていくこと、少ない収入の生計の中でのインプットとアウトプットとを繰り返させながら、徐々にそのむすぼれをほどいていくことが必要なのだと思います。

オランダモデルによる公的部門でのワークシェアリングこそ、公的部門の効率は下がるが、  民間サイドでの起業による雇用効果に待つ悠長なやり方でない、手っとり早い景気回復の手始めになるはずです。

不況下において、そうそう「過剰雇用を吸収しうる新産業」を出現させる意欲が、産業界に出るとは思えません。

先ずババを他に回すことで精一杯だからです。

小野善康さんの前掲近著「誤解だらけの構造改革」では、「良い公共投資を延ばすことの必要性」を小野さんは訴えています。

これに対し、山形浩生さんは、「需要創造型の良い公共投資」とは一体何なのかを、小野さんは指し示していない、と指摘しています。

確かに、その点は、ちょっと弱いかな、という気は、私も、しています。

私は、このホームページのいくつかでのべているのですが、小野さんのいわれる、これまでの「モノからカネ・国債、カネ・国債から外貨・金」への国民の資産保有志向を、今度は逆に歩ませるとすれば、単にいつか来た道を逆戻りさせるのではない、ニュー・パラダイムが、そこに必要であると思います。

私が、そのキーワードとしているのが「高質化」です。

「高質化した消費、高質化した公共事業とは何か。」を「高質化」というキーワードを基に、再構築していく必要があると思っております。

一部学者グループの中に、「国民に40万円ずつ与え、需要喚起を図ろう。」などという珍案を売り歩く方々もあるようです。

前回の総選挙の前にも、「これをうったえれば、大躍進ですよ」などといわれて、  お話をうかがった説に、失礼ながら、私が、その学者の方々に申し上げたのは、「消費にビッグプッシュ政策が必要なことはわかりますが、  これでは、いつか来た大量消費の道を国民に、また、たどらせることになるのではないですか。また、それに伴う外部不経済を発生させようとするのですか。」その方々は、非常に不満げなお顔をされていましたが、また、この頃になって、他の掲示板で、この説を売り込んでおられるのを知り、唖然としました。

まさに、クルーグマンのいわれる「経済政策を売り歩く人々」ですね。これは。

カネからモノへの回帰は、単なる回帰ではない、  ブーメランのごとく、新しいパラダイムにもとずく、非常に迂回した回帰でなければ、消費そのもの、投資そのものに絶望・挫折した国民を振りかえさせることはできないでしょう。

小野善康さんの、例の「誤解だらけの構造改革」で、  小野さんは、構造改革と景気対策とは、全く別物であり、前者は、過去の損失の配分問題であり、後者は、カネからモノへの回帰問題だとしておられますが、  私は、この点、ちょっと違う見方をしております。

「モノからカネ・国債へ、カネ・国債から外貨・金へ」の国民の資産保有選択のポートフォリオのシフトを加速させた、あるいは、いまも加速させつつある原因としては、構造改革の遅れがあることは事実です。

では、構造改革をなしえたとしても、その時点では、事態はすでに異なったものになっているわけですから、構造改革そのものが、景気回復の決め手になるわけでは、決してなく、まさに小野さんのいわれる、失業者をなくすことに公的資金を使った方が、国富の回復には役立つというわけです。

小野さんの論理も、小泉さんの論理も、片方向だけは正しいが、もう一方の方向は正しくない認識であるとでもいいましょうか。

そこに、  この「改革」という言葉の政治的レトリックとしてのごまかしがあるようですね。

ここに、「改革」といわれれば、野党といえども、寂として声のない「めくらまし」があるように見えますね。

国民の痛みとは、過去の損失の配分にあずかってくれという意味での痛みであって、この痛みを通り越せば、  痛みがなくなるという意味での痛みの我慢ではないということです。

構造改革すれば、景気がよくなるという保障は、ないわけですから。今は、「国民の痛み損の政策」しか用意されていないわけですよ。

新たなパラダイムの基に、  小野さんのいわれる「外貨・金から、国内通貨・国債、国内通貨・国債からモノ」への回帰を果たしうる、新しいパラダイムが用意されないかぎり。

でも、新年を迎える日本経済は、まだ、その逆の過程をひた走りに走っているという感じですね。


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